●選択とか戦略とかいう言葉を、ぼくはどうしても信じられない。結局、人は、自分にはこれしか出来ないということを、自分にはこういう風にしか出来ないというやり方でする以外ないんじゃないかと思う。自らの運命を徹底してまっとうする以外に、自由なんてないんじゃないかと思う。
○○は、××という戦略をとる、みたいな文を読む度に、えーっ、と思う。それって本当に「戦略」として選択してやっているのか、と。そもそも「現代思想」的には、戦略とは、個人や主体が意識的に選択するものではなく、制度や装置が「そのように作動する」という意味だったはずだ。例えば「倒錯者の戦略」とか言うとき、その戦略をとっているのは「倒錯」という装置−体制そのものであって、その時「倒錯者」たる主体は、無意識のうちにその装置の戦略に操られているということだ。だから、現状をみてあえてこのような戦略的行動をとっているというような人の「戦略者の戦略」においても、その戦略をとっているのは「戦略」という装置であって、自ら戦略的に行動していると思い込んでいる主体は、実は「戦略」という装置に絡め取られ、操られているだけなのではないか。
人が、自分のする行為に対してするその理由の説明は、(合理的であるように見えても)常に後付けであり、よって、言うこととすることとは常にずれている。人は、自分の行動の理由や、その行動を促す欲望の在処を、本当には知らない。知らないからこそ、その原因をも越えるかもしれない可能性をもつ「行為」が可能になる、のではないか。
●テレビを点けたら梅佳代が出ていて、へーっ、と思いながら観た。こういう人っているよなー、と思う。ぼくは、こういう作品にまったく関心をもつことが出来ない(そこに写っている「男子」や「おじいちゃん」は間違いなく「実物」であるはずなのに、ぼくにとってはとても遠くて蝋人形よりもリアリティがない、スナップでありながら、スナップ的な生々しさがきわめて薄く、人工的、造形的であるように感じられる)。嫌いという感情すら持てない。ひたすら、へーっ、とか、はーっ、とか、ふーんという感じで、表面を滑らかに流れてゆく平坦な感触、感情と情報の流れだけがある。
しかし何故、ぼくはそのことを、ここにわざわざ書き付けるのか。自分の「嫌悪という感情さえ湧くことのないあまりの無関心さ」を面白がっているのか。自分にはまったく関心が持てないものが世間で受けていることに対する、「自分がズレている」感じにひっかかっているのか。それとも、「関心がもてない」と思っているのは何かを強く抑圧しているからで、何らかの隠された関心があるということなのだろうか。
というか、ぼくはこの梅佳代という人の、他者に対する怖れのなさを不可解に感じて、そこにひっかかっているのかもしれない。小学生の男子などという、底知れず不気味で不可解な存在と実際に対面して写真を撮っているのにもかかわらず(想像−幻想によって絵を描いているというなら分かるのだが)、何でこんなにも徹底して「上っ面」だけを捉えられるのか。あるいは、自分の肉親という、簡単には対象化できないくらい愛憎が入り交じっているはずの対象を、何でたんなるキャラみたいに撮ることが出来るのか。これは批判というより、普通はそんな風にはちょっと出来ないよなあという感嘆でもある。
だからぼくはきっと、この人の「他人に対する関心の無さ」に驚いて(というか、びびって)いる(その驚きを抑圧するために、自ら能動的に彼女に対して「関心が無い」かのように思い込んでいる?)。そして、ぼくには、他人への無関心(情の薄さ)によって実現されているとしか思えない作品が、多くの人に、他人への愛に満ちたものとして受け取られていることの不可解さに、もっと驚いている、ということなのだろうか。
いや、それもちょっと違うのかもしれない。例えば、おじいちゃんをまるでキャラのように撮るのは、本当は「おじいちゃん」という存在を怖れていて、だからこそ、それを強引にキャラ化することで(キャラへと縮減することで)、その存在(その存在への驚嘆、その存在によって惹起される死への恐怖)と折り合いをつけようとしている、ということなのかもしれない。小学生男子に対しても、その存在の不可解さへの恐怖が、それを抑圧するような写真を撮らせるということなのかもしれない。生々しさにヴェールをかけて操作可能にする、というような(常にカメラを持って写真を撮り続けている人には、原因と結果を逆転させて、世界を「自分が撮った写真」のようにしたいという欲望がある気がする)。そして、そのような恐怖が多くの人に共有されているからこそ、それを緩和してくれる作品が多くの人に受け入れられているのかもしれない。その恐怖の緩和が、実践的な場面で他者との関係を容易にしてくれる効果があるとすれば、それが「愛」として解釈されるとしても納得できる。