●引用、メモ。『権力と抵抗』(佐藤嘉幸)、第五章「イデオロギー」より。アルチュセールをめぐって。主体は支配的イデオロギー(イデオロギーのディスクール)への転移によって縫合されること。その転移=主体化を可能にするのはイデオロギーの生産−再生産装置としてのディスクールの物質性(儀式=実践)の機能であること。この唯物論的なイデオロギー(諸)装置は、同時に複数、複合的に作動するものであり、よってその間に必然的に生じ得る諸矛盾から、構造変動の可能性をみることができること。
ここでぼくにとって興味深いのは、支配的なイデオロギーへの転移を促し、主体をそこへと把捉する当のものであるイデオロギー装置の実践の場(そのディスクールの物質性)こそが、同時に、そこからの逸脱、そしてより大きな構造変動のための条件でもあるという風にも読めるところ。この本に書かれているのは、社会的な場面での抵抗の可能性を理論的に確保することなので、筆者が主張しようとしていることとぼくの関心はズレている。
ぼくにとってリアルなのは、《観念に対する実践の優位》がいかに危険(イデオロギーに無批判に染まり、それを強化すること)であるのかということと、しかしにもかかわらず、その危険の真ん中を通ってゆく以外に、そこから逸脱したり、何かを作りだす可能性は見えないだろうということ。自分自身の身体を、諸装置の諸矛盾があらわれるための場とすること。繰りかえすが、ここでのぼくの関心は、この本の関心からはズレている。
●《(…)アルチュセールが主体のイデオロギー的縫合を「中心化」と定義するとき、その「優越的中心」は、国家のイデオロギー装置が教え込む支配的イデオロギーである。無意識のメカニズムを通じて支配的イデオロギーの上に自我を「再構造化」することによって、主体はイデオロギー的に縫合されるのである。そして、この「再構造化」、つまり支配的イデオロギーへの転移を確保するのは、実践(儀式)が教え込むディスクールの物質性である。従って、イデオロギー的縫合において、支配的イデオロギーへの転移を可能にするのは儀式的実践であり、ディスクールの物質性なのである。》
《アルチュセールはパスカルの「跪き、唇を動かして、祈りの言葉を唱えなさい。そうすれば、汝は信仰を得るだろう」という命題を例として用いている。つまり、「信仰」を得るかどうかは観念のレヴェルの問題ではない。「信仰」という観念を主体に注入するのは「跪き、唇を動かして、祈りの言葉を唱える」という行為そのものなのである。観念に対する実践の優位というテーゼが、アルチュセールのイデオロギー理論の核をなしている。そして、諸行為を「統御し」、支配的イデオロギーへの服従化を確保するのは、まさしくイデオロギーのディスクールの「呼びかけ」なのである。》
《アルチュセールは、支配的イデオロギーに対する転移のメカニズムを、日常生活の隅々(家庭、学校など)に存在して、イデオロギーを教え込む「儀式」によって説明した。イデオロギー的転移のメカニズムにおいて、実践あるいはディスクールの物質性は、観念に対して優位を占めている。それに対して、ジジェクのアルチュセール批判においては、こうした「呼びかけ」の物質性が完全に抜け落ちている。さらに、ジジェクは国家のイデオロギー装置の多様性を〈法〉のみに還元してしまう。そのとき、イデオロギー諸装置による呼びかけの多様性は、〈法〉の「外傷的で意味を欠いた命令」のみに帰着してしまう。》
《国家のイデオロギー諸装置は「多様」であり、それゆえ「諸矛盾に客観的な場を提供することができる」。換言すれば、国家のイデオロギー諸装置は、その多様性において装置間に諸矛盾を孕みうるのであって、その諸矛盾は抵抗(「階級闘争」)と構造変動の賭け金をなす。》
《たとえ、国家のイデオロギー諸装置の機能が「支配的イデオロギーを教え込むこと」だとしても、このイデオロギーは複合状況によって変容を被る。そして、その変容の中に、支配的イデオロギーへの抵抗が現れている。こうしたイデオロギーの変容を、一九八〇年代のアルチュセールの言葉を借りて、イデオロギーの「逸れ=偏差」と呼ぶことにしよう。》
●ああ、そうか、ここで筆者(やアルチュセール)は、あくまでも社会構成体のなかで既に成立している複数のイデオロギー装置の間にある矛盾や闘争のこと(要するに「階級闘争」のこと)を「抵抗」として考えているのだけど、ぼくは、ある一つのイデオロギー装置の実践(ディスクールの物質性)のなかに、すでにイデオロギーの「呼びかけ」へと中心化されない複数の運動への分岐がある(潜在している)ということに関心がある、ということなのかも。転移によって主体をつくりだすイデオロギーそのものと、それを実際に再生産する場であるイデオロギー装置の具体性(物質性、あるいは技術性)の間の、関係のあやうさ、というのか。《跪き、唇を動かして、祈りの言葉を唱え》るという行為が既に複数の行為の複合(モンタージュ)によって成り立っているのであって、その統合のその都度の有り様のブレや失調から、「信仰」へと中心化されない、あるいは、教えられた「信仰」を別様なものへと変質させてゆくような力線が延びて行く、というような。ひたすら本気で《跪き、唇を動かして、祈りの言葉を唱え》つづける行為それ自身のもつ内在的な力(あるいはその行為一つ一つの具体性や技術性)が、《跪き、唇を動かして、祈りの言葉を唱え》ることの意味や内実を変えてゆく、というような。ぼくの興味は、あくまでそのような個別的な実践−生の有り様にしかない。
●でもやはり、それはちょっとロマンチック過ぎるのか。一つ一つの行為の具体性が常に多方向へとばらけてしまう危険があるからこそ、中心化する力としてのイデオロギーの「呼びかけ」による制御がより強く要請されるとも言える。とはいえ、イデオロギーによる「呼びかけ」と、それを再生産し、個別的な身体へと刻印してゆくディスクールの物質性とは、分かちがたく結びついているとしても、そもそもその結びつきに確たる根拠はないはずなのだ。「呼びかけ」そのものには内実はなく、その内実をつくりだすのはディスクールの物質性なのだとすれば、ある強烈なディシプリンこそが、その当のディシプリンを強いた体制を越え出て行くこともあるはずなのだ。というか、そういうことは普通にあるんじゃないだろうか。