●『静かなる一頁』(ソクーロフ)をビデオで。はじめて観たソクーロフ。あれからもう十五年。
ソクーロフはリンチにけっこう似てる。特に人物のとらえ方、というか、人物との距離感。カメラに対して、人物を適切な距離に置かない。遠すぎるか、近すぎるか、位置がずれているか。カメラが人物に過剰に近寄ってゆくときの、肌への迫り方、肌のあらわれとかに、すごくリンチを感じた。そもそも空間全体が最初から歪んでいるというのも似てる。
●音の距離感もよく分からない。遠くから響いているのか、耳元で小声で囁いているのか。ふと気がつくと、いつの間にか小さなボリュームで音楽が鳴っている。
●この街は、寒いのか、蒸し暑いのか。湿った暖かい空気が地面から立ちのぼっているのと同時に、冷たい霧が上から降ってもいるようだ。主人公は、重たいコートを着ているのだが、暑そうに胸元を大きく開けている。あるいは、汗でシャツの襟が伸びてしまっているかのようだ。
●空がまったく写らないから、この街全体が、一つの巨大な廃墟のなかに閉じ込められているかのようだ。広場も街路もすべて建物のなかのように見える。だから逆に、部屋のなかもあまり外とかわらない。どこも等しく、石の壁に囲まれている。(途中で挿入される、殺された老婆の部屋らしいカットだけが「部屋」としてこの映画の他の空間から切り離されて別の場所にあるみたいだった。)
●あると記憶していた場面がなかった。おそらく、オリヴェイラの『神曲』にあった場面と混同していたのだろう。
●最後の方に、唯一の俯瞰のカットがある。いかにもミニチュアっぽい街が(あり得なかったはずの)空から捉えられる。しかし、この街(ミニチュア)は水没しているようなのだ。だとすると、最初にあった水(川?)のカットは、この水の上に街があるということではなく、この水の下に街があるということだったのか。
●イメージの触れられ無さに触れるようとすること。触覚的な映像とは、何もテクスチャーに凝っている(モノクロに近い脱色された粗い画面に時々ぼわっと鈍い色彩が浮かぶ)ということではない。ごつごつ、ざらざらしたものが沢山写っているということでもない。時折、人物の顔(というより肌)に過剰に近づくというだけでもない。それも含め、映像も音声も、常に空間が歪み、距離感が攪乱されている。
視覚には距離が必要であり、視覚の機能はまず距離を測るということでもある。しかし、イメージそれ自体は、距離とほとんど関係ない。いや、遠いイメージがあり近いイメージがあるが、遠いイメージの方が弱く微かだということはない。強い、遠いイメージがあり、弱い、遠いイメージがある。強い、近いイメージがあり、弱い、近いイメージがある。遠さと近さとは、表面の滑らかさと粗さのような違いとしてある。視覚が、距離感の攪乱によって「距離を測ること」を放棄すると、遠さと近さとは、そのようにあらわれる。