●宅配の荷物が届いてドアを開けたら、外に真っ青な空と澄んだ光があって、うわっと思った。外出する予定はなかったけど外に出てみることにした。メガネをかけて散歩してみようと思った。
一昨日、メガネをかけて出かけた時はもう夕方で薄暗かったし、新宿に着いた時は完全に暗かったのだが、今日の、明るい午前中の光の下ではまた全然違って、圧迫や恐怖を感じるくらいに物が明確に、そして迫って見えた。遠くの物と近くの物とがべったりと並列的に見えるだけでなく、世界全体が普段(裸眼)より二、三歩ぐぐっと近づいて来ているみたいだった。向こうからこちらに走ってくるバイクとの距離感がよく分からない。木の葉の一枚一枚、アスファルトの表面のデコボコしたざらつきが、とげとげしく目に(というより、感覚的に)突き刺さってきて擦れるかのようだ。踏切で待っていて目の前を電車が通り抜ける時に強い恐怖を感じた(電車の質感と重さがあまりに近くにある)。ずっと先まで続くまっすぐな道では、先の先までくっきり見えてしまうので、自分の周囲の空間への配慮が甘くなる。というより、自分が「ここ」にいるという位置の感覚が希薄になる。道路の反対側にいる人がすごく近く感じられる。人の顔や表情がよく見えてしまうのでついついじっと見てしまう。遠くの物も近くと同じように「見えてしまう」ので視線の動きのランダム度が増し(視線の動きと空間の秩序が関係なくなり)、さらに空間の感覚が攪乱される。重力とか身体の軸といった感覚が視覚に持っていかれて希薄になる。聴覚と視覚の関係が軽く乖離してぎくしゃくする(視覚像に既に騒音や雑音が含まれている感じだから、それが実際に聞こえる音とぶつかり合ってしまう)。金村修の写真のなかを歩いているみたい。
たかだかメガネをかけただけで、飛躍的に視力が上がったというわけでもないはずなのに、こんなにも感覚が違うものか、と思う。「よく見えてしまう」というだけでなく、視野がレンズの粋で途切れて狭くなって、無意識のうちに感じている視野の周辺への注意の広がりが遮断されるから、物が「いきなり」視野に入ってくる感じになるということも重なって、空間が唐突で、無秩序に張り合わされた多様なテクスチャーのパッチワークのようになる。そういう意味ではリアルでゴダールの映画みたい(原理的には映画では物や人は唐突にフレームに入ってくるけど、通常は、音や人物の視線、仕草などが視野の周辺のようなフレームの外まで広がる無意識の予感の領域をかたちづくっていると思うのだが、ゴダールはそういう風につくらないから)。
一時間ちょっとくらいはなんとかずっとメガネをかけて歩いていたけど、軽く頭痛がしてきたので途中からは外した。慣れればこういう感じはだんだんなくなってくるのだろうけど、面白いから、出来るだけ慣れないように適度にメガネを使っていきたい。
●だが、一番驚くのは、人の顔がよく見え過ぎてしまうということだ。ぼくは、外で知人とばったり会っても、自分から気付くことがほとんどないのだが、それは、いつもぼんやりしていて他人への(人への)関心が希薄だからだと思っていたのだが、たんに「顔が見えてなかった」ということなのではないか。というか、もともとあった、ぼんやりして他人への関心が薄いという資質が、目が悪くて「顔がよく見えない」という事実によって強化されてしまった、ということではないか。
●今日の散歩の写真。