●新宿の朝日カルチャーセンターに、佐々木中×磯崎憲一郎の対談を聞きに行った。ずっとこもっていて、電車に乗るのが十日ぶりくらいなので、思い立って、メガネをかけて出かけることにした。ドアを開けて外に出た瞬間から、普段とまったく違ったクリアーな世界がひらけていた。毎日のように通るアパートから駅までの道や、何度も何度も往復した最寄駅から新宿までの中央線の車内が、世界全体の薄皮が一枚はがれたくらいにクリアーで新鮮だった。気づくと意識しないうちに人の顔を凝視していたりして、あわてて目を逸らした。また、新宿の夜景を、こんなに美しかったのかと見とれもした。裸眼では乱視があるので、夜のネオンが滲んだ感じで見えるのだが、メガネをかけると輪郭がきりっと見えるのだった。
ただ、ぼくは普段は右目の方が視力が高く、右目を中心にした視野になっているのだが、右目には乱視が強くあってメガネで矯正してもほとんど視力が上がらず、だから、メガネをかけると逆転して左目の視力が上回り、左目を中心に視界がつくられることになって、その違いのせいだと思うのだが、歩いていて少しくらっとすることがあるし、肩がこる。
そういう感じで、うわー、すげー見えると思いつつ会場に着いたら、対談のはじまりが、佐々木さんは子供のころに視力が3.5以上(計測不能)あったという話で(ただ二十代半ばで老眼になって今はそんな視力はないとのこと)、なんか気持ち悪いシンクロだなあと思った。
3.5という視力を具体的に想像するのは難しいのだが、たかだかメガネをかけて多少視力が上がったくらいでこんなにも物事が違って見えるのだから、同じ環境のなかにいても、本当に一人一人、人によって見ている、触れている世界は違っているのだなあとつくづく思うのだった。視覚的なことだけでなく、嗅覚とか聴覚とか、あるいは自分のまわりのどれくらいの範囲の空間を無意識のうちに配慮できているかとか、方向感覚とか、温度や湿度に対する感じ方とか、あるいは同じ嗅覚でも、ある特定の匂いに敏感だとか、あるいは身長だとか運動能力だとか体調だとか年齢性別だとか、そういうものによって世界のあらわれ方がまったく違うのだろうと思う。その違いにはもちろん、文化や習慣の違いによる傾向とかもあるのだろうが、やはりそれより、身体的な特質によるものが大きいのだと思う。例えば網膜に映りこむ光の感触は、瞳の色によってどの程度違うものなのだろうか。
ぼくからしてみれば視力が3.5なんてほとんど超能力の領域で、しかも、そんな人が道を歩いていたからといって、なんら外見的な違いはないのだから、その人が「そんなに見えている」などとは外からでは想像しようがない。3.5なんていう視力の人がいるのだから、幽霊とか宇宙人とかちっちゃいおじさんとかが見える人がいてもまったく不思議ではないように思う。多くの人には見えないからといって、そして、それが見えていることを証明できないからといって、その「見えるもの」に「根拠がない」とするような態度は、本当にとんでもない(オカルト的な言語、理論の体系を、それ自体として信じてるわけではないし、そういうことではまったくないのだけど)。
人によって、世界を感知し構成するための基底である身体の条件がそれぞれ違っていること、そして、他人の身体(知覚)によって世界を経験することは決して出来ないこと(だからこそ、それを出来る限り想像しようとすること)。「わたし」と「同じよう」に、世界のあり様をそれぞれ「違った固有のやり方」で感じている個体が、この世界には「無数」に存在し、過去にも存在したし、未来にも存在するだろう。こういうことをどのくらい具体的に、リアルに感じられるかどうかが、世界のリアリティのあり様とすごく関係がある気がする。
●おそらく、言語という象徴的なものの使用によって、その違いを多少でも均すことが出来る。感覚と感覚とを直接突き合わせることは出来ないとしても、同じような「言語の運用法」が共有可能なのであれば、そこにある程度は共通した感覚があると見なし得る。それによって(差異をある程度無視して)社会空間を共有する(互いに意思疎通をはかる)ことも可能になる。だが言語には、言語の網の目にひっかからない差異を無いものとみなす(抑圧する)という作用がある。だからといって、言語の網の目を無限に繊細にしようとするとしたら、それは「誰にとっても運用(共有)可能」なものではなくなって、そもそもその(社会的)意味を失ってしまう。おそらくこの綱引き(分配)が政治ということなのだろう。しかし、芸術による言語の使用はそういうものとはまた別であるはず。
●という話が、佐々木×磯崎対談で話された話とどのくらい関係があるのかは分からないのだが。