●引用、メモ。『時間の正体』(郡司ペギオ-幸夫)より。この本は、とても面白くて何度も繰り返し読んでいる。読んでいる時はなんとかかんとかついてゆけていると思っているのだが、理屈の道筋が複雑でとても抽象性が高いので、読み終わった後、その論理の展開を頭のなかで再現できない。だから、それを思い出すために、もう一度読む、ということになる。
以下に引用する部分は、おそらくこの本の中核の一つであり、それだけでなく、「この世界」にとってきわめて重要な何かに触れている。ここさえ忘れなければ、あとは自分にとっての問題となる、ともいえる。
(書き写しながら読んでいて、最後に引用した部分の重要性に改めて気づいて、ちょっと身震いした。)
≪内部観測とは、内側からモノを観測することだ。しかしそれは、アリになって、アリの目線で見ることを直接、意味するものではない。そうではなく、アリは、すべて見渡せないあなたの(もちろん、学習や体験によって、人類の経験さえ負っているあなたの)、経験に依拠して認識されるアリ、とされる。世界を超越的に外部から見渡すあなたではなく、どこまで見知っているか知らず、世界を内側から見ることしかできない観測者=あなた、にとってのアリである。もし、「アリの定義に一切の誤謬や矛盾のないところで、アリを認識している」、というのなら、アリを内部観測するという意味は失われる。アリの定義、認識にはどこまでも完全にわかったということがなく、保留が伴う。この限りで、アリはあなたのアリ経験を免れない、内部観測されるアリということになる。内部観測されるアリとは、経験的にアリとされる限りのアリである。少なくとも、アリが「世界から分離された六本足の物体として認識された」、というなら、アリはこの経験を満たす限りでの運動を逆に許容される。≫
≪対象Xに対する内部観測者の描像は、「Xは、Xであるところの保存則を満たす限りXである」、「XはXの同一性を維持する限りにおいてXである」といった、ある種、同義反復的言明、もしくは、Xの定義にX自体が含まれた、自己言及的形式を取ることになる。問題は、このような自己言及的言明に意味があるか否かを、詮議することではない。そんな問題は解決している。我々は常に、「XであるところのX」を受け入れてしまっており、むしろ、論理的には無意味な、もしくは矛盾でしかないような言明を、あたかも有意味であるかのように運用することで、Xを指示し、Xに気づくのである(そして、そのことこそが、時間と関係している)。≫
≪もちろん、それは「X」と「Xである」が密接に、たとえば等式、「X」=「Xである」、のような形式で、閉じた一個の象徴を形成することを意味するものではない。両者の間には現実の溝、外に通じる空隙があり、外部からの関与が絶えずここに吹き込み、両者の乖離を維持するとともに交流させる。「X」と「Xである」ことの共立が、Xに気づくという、まがりなりにも一個の現象を成し、無意味な自己言及形式すら、有意味のように運用できてしまう。≫
≪「X」と「Xなるもの」の間の同一性原理は、Xを属性、強度によって定義する内包と、Xを具体的な対象、状態の集まりとして定義する外延との同一性原理であると言い換えることもできる。たとえば「リンゴ」の内包は、赤いこと、甘い果実であること、などの性格によって規定されるだろう。外延は、これらの性格を満たす具体的対象として、八百屋に売っていたあのリンゴや、テーブルの上の盆に載ったこのリンゴということになる。内包も外延もともに同じリンゴ概念を規定する装置であり、その限りで一致せねばならない。同一性原理は、内包と外延とがただ一つの関係として互いを規定することに、その起源を求められる(内包、外延の対においてすら、その同値性は理念的にしか成り立たない)。≫
≪内部観測された対象Xは、「X」と「Xであること」の乖離と混同を担う。この混同こそ、階層差を乗り越えんとする同一性原理である。「X」と「Xであること」の階層差は、観測に由来する内包と外延とをその起源とする。対象Xにおいて、内包・外延はマテリアル化される。したがって、外延は、内包を個物化し操作対象とする形であらわれる。だから、外延は、内包を集合として表すなら、そのべき集合として現れることになる。≫
≪実在するXは内部観測されるXである、と考えるとき、あらゆる対象は経験的に認識されるXである。このとき、Xを認識するときには、Xであることを先行的に知っていたことになる。「Xである」ことを成立させるような根拠が、ここに前提されることになる。たとえ、初めて知覚されるXにおいても、事情はかわらない。赤ん坊が、アリに気づく場合を考えよう。いままで背景の一部と化していたアリに初めて気づくとき、しかし、実はそのアリは、対象化される以前にも、まさに背景として知られていたのである。背景を知覚するように知覚され、「アリ」が個物化されるのを待ち構えていた。「アリ」以前に、アリなるものが、先行的に知覚され実在していたのである。いかなる初めての体験も、ある意味、デジャブとしてしかあり得ない。≫