●「オブジェクト指向存在論」は、雑駁にとらえれば、「私――/(私の知覚)/――世界」という関係の問題において、私と世界とを媒介する「私の知覚」から「私」を取り除いて、そこにモノや媒介の機能を代入するという方向性をもつように思われる。そこで、モノや媒介の多様な「媒介する」機能とそれらが作り出すネットワークとを、具体的に明らかにしてゆこうとするのだと思う。そうすると「私」さえも、モノたちの様々な媒介作用とそのネットワークの結果であるということころに行き着くだろう。
それはそれで非常におもしろくて興奮するのだけど、しかし、それによって「わたし」の問題が完全に還元され、「わたし」を消去することができるとは思えないので(ハーマンの「実在的対象」は、徹底して孤独なモノであると同時に、徹底的に孤独な〈わたし〉でもあるように思うし、「魅力」という概念は一種の汎クオリア主義のようにも読める)、そっち方向の探求はまた別に必要であるように思われる。永井均的な「わたし」の問題(あるいはへーゲル的な「否定」の問題)は依然として残りつづけている。
そして、この二つの問題を接続し、関係づけようとする思索として、郡司ペギオ幸夫が依然として気になりつづける。
以下は「適応能と内部観測」(『内部観測』所収)の、冒頭の部分(だけ)の要約で、郡司の議論はこの後とても複雑で難解になってゆく(ので論理を追い切れなくなる)のだけど、最初にある問題設定はきわめて明快だ。
(オブジェクト指向存在論は、下記のような問題を共有しつつ、「モノ」や「媒介」の機能に注目して「私」を薄くしてゆこうとするのだけど、郡司は、「時間」に注目することで、「私」と「世界」との両者を生かそうとしているように思われる。)


○今まで視野に入ってこなかったもの、が、新たに見えるようになる、という体験
→「今まで見えなかったもの」は、見えた後でのみ「見えなかった」と知り得る
◆見えたことの逆説としてのみ知覚される「見えなかったもの」のステイタスは?
→見えなかった〈こと〉の「様相」は、「知覚」ほど明快ではない
◎それ、は、すでに「実在」し、「隠されていた」、のか?
◎それ、は、わたしが「新たに」「構成」した、のか?


「私」---/私の知覚/---「私を取り巻く〈世界〉」
→「私の知覚」=両者(私/世界)をとりもつ唯一の(私の)「働きかけ」であり「獲得」である
◎「私の知覚(「私・世界」関係)・私の獲得」
→「世界」に重点おいて解釈し、「私」を〈無効にする〉(→存在論)
→「私に内属」させ、世界を「構成」として解釈する(→認識論)
どちらか一方に決定できない


○「私の知覚(Xを獲得する)」=「私の知覚(Xは世界の中にある)」
→「Xがある(Xの獲得=意味・図の知覚)」と「世界の中にXがある(「X/世界」関係=文脈・地の知覚)」が同時に獲得される
◆知覚=対象の観測可能な状態の同定、と仮定する
◎すると、「Xの知覚」「世界の知覚」は同等(同じカテゴリー)となる
しかし
→「Xは知覚以前に存在していた」ならば、《X知覚以前にも知覚されていた世界、において、世界内に存在するXはすでに知覚されている》ことになる
→「Xは知覚以前に存在せず、知覚によって構成された」ならば、《所与としての世界を正統化できない》→(世界は私的に閉じる)
◎ならば、「Xの知覚」と「X以外(世界)の知覚」を〈異なるカテゴリーの知覚〉としてみれば
→「(X知覚以前の)存在しながら知覚されないX」のある世界、を正統化できる
◇ところが、「X知覚(X獲得)の刹那」を考えると
→〈Xを世界から分離する私〉は、〈分離されるべき世界〉を知覚していなければ、分離すべき〈Xを分離する〉ことができない
(新たな図・意味が獲得されるためには、それが分離されるべき地・文脈が、あらかじめ、すでに「新たな図の分離」を促すようなものに構成し直されている必要がある)
→つまり「知覚過程」において、〈異なるカテゴリーの混同〉が不可欠になる
◇よって、カテゴリー分離による正統化は破綻する
→事実上、「世界の変質」が「私の獲得」に先行することになり、「私の獲得」が成立しなくなる


○たとえば「ゼノンのパラドクス」
◎「対象」として自存する〈矢〉
◎(観測者に「運動」の理解を可能にする)「空間にある」飛んでいる〈矢〉
→この二つの区別がある(「運動」を介して、はじめて「空間」が要請される)
→つまり、(1)対象としての矢(「空間」を含意しない矢)と、(2)空間にある矢(「空間=地」と一体となった「矢=図」)とが区別されている
ここで、(2)における、「空間(地)」と「矢(図)」の関係は、両者の分離独立を含意しない
◆にもかかわらず、ここで、(1)と(2)との区別が、(カテゴリーが混同されて)(2)における「矢=図」と「空間=地」との区別として導入される時、ゼノンのパラドクスが生まれる
→といって、ここで「対象」と「世界」の分離をやめてしまうと(つまり(2)だけを考えることは)、すべては「こと」として遇されてしまい(過度の存在論オブジェクト指向存在論となる)、「世界」のなかにある「私(観測者)」を理解することが出来なくなる(「私」を理解するためには、「カテゴリーの混同」を避けてはいけない→「私」とは「カテゴリーの混同」のことである?)


◆つまり、ここにあるのは「対象を世界から分離する過程」の問題であることが明らかになる
◎対象を世界から分離する過程→「新たな出来事の継起」→時間(学習課程・進化過程・歴史)の問題
→それは、通常「時間」の問題として処理される→「時間」が問題となる