●ツタヤをぶらついている時に思いついたのだけど、なぜ多くの人は「一般的ではない作品」に拒否反応を示すのかというと、下手に「一般的ではない作品」を好きになってしまったりすると、どうしても秘密にしておけなくて、つい誰かにそのことについて喋ってしまうかもしれなくて、そうすると、普段の人間関係のなかで「一風変わった作品が好きな人(=ちょっと風変わりな人)」というカテゴリーに分類されてしまうのだけど、そういう形でのキャラづけは日常生活のなかでは有利にはたらくことはほとんどなくて、排除されるとか攻撃されるところまではいかないにしても、妙な「特別席」に置かれてしまいかねなくて、それはやっぱり嫌だ、というか、面倒だと感じる人が多く、無意識のうちに「一般的カテゴリーから外れる作品は好きにならない」というガードを自分に課しているのではないだろうか、と。
(逆に、かなりおかしな、ヤバい、妙なものであっても、それがヒットしていたり、あるいは、権威や習慣によって「普通カテゴリー」とお墨付きされている場所に置かれているものである場合は、皆、安心してそれを「好き」と言えるから、躊躇なく「手を出す」ことができるのではないか。)
はじめから、ごまかしようもなく「ちょっと変わった人」であれば、そこに行くことに何の躊躇もなく、むしろ、それによって救われる(そこには「こことは別の関係」があり得る)のだと思うのだけど、そうではない人にとっては、(意識されていない)きつい抑圧があるのかなあ、と。
ツタヤをぶらついていて、と書いたけど、おそらく他にも『ユリ熊嵐』の感想をネットでみたことも関係していると思う。多くの人が、あまりにも当たり前のように「分からない」とか「難しい」とか書いているのだけど、この作品は表現としてユニークではあるけど、他のアニメに比べて特に難しいということはないのではないかと、ぼくは思うのだけど(アニメには高度なリテラシーを必要とする作品はいくらでもある)。「分からない」という言葉が一体どのような事態を指して言われているのかが、ぼくにはよく分からない(「つまらない」というのなら分かるのだけど)。それは、ご飯の前には「いただきます」というのが正しい作法であるのと同様、『ユリ熊嵐』に関しては「わからない」と言っとくことが正しい(あるいは「間違う危険が極めて小さい」)作法であると理解されているかのようだ、という感じもする。別に「作法通りの態度を示す」ことを批判しているわけではなくて、ああ、作法というものがあるのだなあ(自分はそのようなものに疎いのだなあ)、という感じ。ただ、作法が強く作用し過ぎるのはキツイなあ、と。
(「分からない」という言葉には「つまらない」と違って、多少なりとも「分かりたい」といった興味の萌芽が含まれているようにも感じられるけど、一方、たんにパフォーマンスとして「分からないという態度」を示すことによって「態度決定済」というハンコを押して、この件については処理済みとしたい、という感じもある。あるいは、多くの人が「分からない」とわざわざ口に出さずにいられないのは、この作品にそのような作法を揺るがす力がそなわっているということかもしれない。)
作法とかカテゴリーというものが相当強いのは、おそらく、人間が多くのことを近い範囲の人間関係のなかで判断するということだと思う。というか、判断の基準が、ごく近くの人間関係のなかで、その具体的な関係を通じて組み上げられてゆくということ。関係を、気配や空気として察知して、それが内面化される。そのようなやり方で内面(判断の基準)をつくることが、最も効率的で理にかなっている(リスクが少なくリターンが大きい)。これを(例えば「根拠がない」とか「視野狭窄だ」として)批判しても、作法にあまりに無頓着だと関係のなかで実践的に上手くいかない、つまり生活がうまくいかなくなるのだから、その批判は機能しない。そこから少しでも自由になるためには、やはり複数の異なる関係性のなかにいる、ということしかないように思う。
●そういえば、一昨日、電車に乗っている時、和服を着た上品そうな年配の女性の三人組が映画の話をしていた。
「わたしこないだ、宮崎なんとかっての観たわよ、飛行機乗りの映画」「あー、あの人、アニメね」「うちの娘は子供連れてよくアニメ行くわよ、ちょうど時間つぶしになるって」「あたしアニメは観ないけど、でもこの前、ほら、あれ、『アナと雪の…』なんとか」「あー、それね、同じ人よね」「そうそう」
同じ人って宮崎駿のことなのか、と。おそらく、このような具体的な人間関係における具体的な会話のなかで、カテゴリーの分類が行われてゆくのだと思う。天下の宮崎駿も、大ヒットした『アナと雪の女王』も、その程度の知名度で、つまり「カテゴリー」といってもそういうざっくりしたもので、ざっくりした会話のなかでざっくり片付けられ、決定され、しかしざっくりしたものだからこそ強く、修正しにくくて、手ごわいのだなあと思った。
(これも、この三人の女性たちを非難しているのでもバカにしているのでもなく、誰であっても、自分と密接に関係がなかったり、あまり興味がなかったりすることに関する認識は、この程度のざっくりとした雰囲気的理解で処理しているということ。そして、普段かかわっている人たちの関係のなかで、このようなざっくりした雰囲気が共有されていけば、さしあたり「地雷を踏む」確率は低くもなるということだと思う。)
●この「空気」や「作法」というようなものを、一概に悪いものとは言えないと思う。これは関係のなかから生まれると同時に、関係をつくり、維持するための媒介でもある。それが、一種の文化(集団的な精神)のようなものにまで高まって行く場合もあれば、下らない、卑小なレベルの政治をかぎりなく再生産するだけという場合もあるということではないか。確かに、現代日本に住んでいると、後者ばかりが目についてしまうのだけど。
よい空気をつくり、持続するための具体的な「作法」の研究というのは、実践的にとても重要なものなのではないかと思う。きちんと分析的、定量的で、かつ実践的であるような。そういうものがあまりないから、あやしげな「道徳」や「ハウツー」みたいなものがはびこるのではないか。
ぼくにはひとかけらもそのような能力はないのだけど、時々、人と人との関係をよい感じの方向へと導いてゆくような振る舞いを自然にできる人がいて、ぼくなどは無条件で尊敬してしまうのだけど(とはいえ、時々そういう人のなかにすごく「危険な人」もいるわけだけど)、そういう人の、空気をよくする「作法」と、一方、あらゆる事柄をことごとく卑小な政治へと落とし込んで人を巻き込んでゆくような人の「作法」とを、具体的、分析的に比較してみるというのは、かなり有効なことなのではないだろうか。