●物事を二つに分けるという思考方は、分かりやすいが故に危険であると分かっているのだが、それでもそこになにがしかの説得力を感じざるを得ないことがある。たとえば、人には、自分の中に棲む人と、世の中に棲む人と、ざっくりと二つの方向があるように思う。ただ、このことに気づいたのはずいぶん歳をとってからで、ぼくは自分が前者だと思うので(とはいえ、それほど「確固たる前者」とはとても言えないが)、人は基本的に皆前者なのだとずっと思っていたのだけど、どうもそうではないらしいと気がついて驚いたのはけっこう最近のことだ。
たとえば、人は、社会の中に生きていて、社会がなければ生きられないのだから、社会的な関係は不可避であり、いわばしかたなく(すごくめんどくさいけど)社会的な関係性のなかに入ってゆく(しかない)のであって、しかしそれとはまったく別の、自分としての生があって、こちらの方でこそ「生きて」いて、これはまったく個人的な、自分の内側と、あるいはごく私的な関係のなかにこそあるものだ、と、人はみんな思っているのだと思っていた。しかし、社会的な関係の実現こそが自己実現だ、という風に感じている人が少なからずいるのだと知った時には大変に驚いた。このことをすごく上手く言い当てているのが、斉藤環が昔言っていた「ひきこもり系」と「自分探し系」という分類だと思う(ただこのネーミングはあまり適当ではないと思う)。ひきこもり系はコミュニケーションは苦手だが、自己イメージが割合強固なので一人でいることが苦にならない(「わたし」が自分の中に棲む)。むしろ一人でいたい。自分探し系は、コミュニケーション能力は高いが、自己イメージが明確ではないので、他人との関係によって、そのなかに自分を見いだす(「わたし」が社会的関係の中に棲む)。つまり、「自分探し(に限らず、何かしらの探求)」を、内に向かって行うか、外に向かって行うかの違いだと言える。あるいは、常に「わたしたち」としての「わたし」(「わたしたち」のなかの「わたし」)を語る人と、あくまで「わたし」として「わたし」を語る人との違いともいえる。おそらくこの違いは資質の違いとしかいいようのないものなのだろう。
で、たぶん、前者の人は後者のことを、後者の人は前者のことを、実感としてなかなか上手く理解できない。この「理解できない」感じは、時に尊敬やあこがれとして、時に、軽蔑や不信として、そして畏れとして、あらわれる。たとえばアーティストでも、常に現在性やシーンというものが想定されていて、その「現在」や「シーン」に対して一石を投じる(何か新しいことをする---現在描かれている地図‐諸関係を書き換える)というところにモチベーションがあるタイプと、そういうものとほとんど関係なく、自分独自の主題があり、それに関する独自の探求があって、その結果としてユニークな、今までにない作品をつくり出す---結果として地図を書き換える—--というタイプの人もいる。もちろん、人は誰でも時代や社会のなかにいてその影響と制約を受けて存在しているのだから、結果だけみればどちらであっても大した違いはないと言えるのかもしれない。外が内を映し、内を代替するのか、内が外を映し、外を代替するのかの違いであって、結果としてやっていることは同じかもしれない。しかし少なくとも、その結果が出てくるためのプロセス(演算)の方向は異なっているし(そのプロセス-演算こそが「わたしの生」なのだから)、何よりモチベーションのあり様が違う。向きとしてはどちらもあり得るし、どちらもあり得ることを知ってはいるけど、個としては、どちらかに重みづけられた「わたし」を生きるしかないのではないか。
たとえば、「自分の中に棲む」系の人が自分の問題を独自に探求するうちに、それが社会的な関係の効果として生じているというところに行き当たることもあるだろうし、イケイケの「世の中に棲む」系の人が、病気やちょっとした失敗によって内省的な宗教や哲学と(あるいは恋愛などによって関係に解消されない「内側-個」というものと)出会わざるを得なくなることもあるだろう。どちらにしてもそれは、裏返って同じようなところに出るしかないのだと思う(「現実」がある、とは、どちらにしたって「裏返らざるを得ない」ということだ)。それにもちろん、これは程度の問題であって、純粋に「自分の中に棲む」系の人も、純粋に「関係の中に棲む」系の人も、(「病気」の人以外は)ほとんどいないだろう(どんな「わたし」も底が抜けているのであって、完全に閉ざされた「わたし」はあり得ないのだし)。とはいえ、そうだとしても指向性は逆向きなのだから、相手方のことはなかなか理解できない。少なくとも、「なかなか理解できない」ということだけは理解しておいた方がいいと思う(相手方を簡単に「自分方の文法」で整理できると思わないほうがいいと思う)。
このとき、反対側にいる人に対する敵意をモチベーションにするほど下らないことはないと思う(いや、実際問題としてはたとえば、「世の中に棲む」系の人にとって「自分の中に棲む」系の人は、役立たずのくせにやたらめんどくさい鬱陶しい奴、でしかないのだろうとは思うけど……)。そうすることで、何より自分自身の「立場」が固定されてしまって、自分が、自由や柔軟性を失うのだと思う。「敵」があるとしたらそれは「退屈なもの」や「固着したもの」であって、自分の反対側にあるものではないと思う。