●『魔法少女まどかマギカ』を改めて最後まで観て、もう一度「魔法少女たちの舞台装置」(石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』所収)を読み返した。そして、うーん、成る程、と、改めて唸らされた。
まどかは、作品世界内の物理法則に従いつつ、その範疇で魔法少女-魔女システムを改変するという奇跡を、ラッセルのパラドックスのような「願い」を創造することによって成し遂げたと言える。しかしそれによって、自分自身がラッセルのパラドックスのような存在になってしまった。
ちょうど今『ユリ熊嵐』をたまたま観ているからそう思うのかもしれないけど、「まどマギ」と「ユリ熊」(というか、幾原作品)とは対称的でもあり、相互に相手を批判し合っていてもいるような緊張関係にあるのではないかと思った。
(「ユリ熊」最終回についてはまた別に書くつもり。)
まず、幾原作品ではシステムは改変されない(つまり、その意味では革命は起こらない)。変わるのは「わたしとあなたの関係」であり、そこから照射される「わたし」であろう。登場人物は、システムのなかで生まれながらも、そのシステムとは別の原理を発見し、そちらに従うことを選択する。システムは存続し、いわば、登場人物の方がシステムを捨てる。そして、システムとは別の原理は、あくまで「わたしとあなたの関係」のなかから生まれる。ウテナとアンシーは鳳学園を去り、銀子と紅羽は嵐が丘学園を去る。「ピンドラ」においては、教団-サネトシ-冠馬という、システム改変を画策する系譜も存在するが、それはどちらかと言えば間違った方向として描かれていた(脱社会的と、反社会的の違い)。
対して、「まどマギ」では、特権的な主人公が世界のシステムそのものを変える。しかも、「まどマギ」におけるシステムとは物理法則のようなもので、幾原作品のような人為的、社会的なシステムとは違い、それとは別の原理を選択することや、その外に出ることは原理的にあり得ないという、とても強いものだ。キュゥべえは人類に対する上位概念であり、希望と絶望の相転移は、熱力学の第二法則と同等のものとして語られる。さやかの願いもほむらの反復も、あらかじめ法則の内にあり、法則に対しては効力をもたない。キュゥべえは条理そのものであり、ユリーカのように弱みをみせたりしない。だから、まどかの「願い」は難しい数学の問題を解くようにして発見される。
(勿論、その発見-計算は、まどか一人によってなされるのではなく、ほむらの反復をはじめ、さやか、杏子、マミたちの行為の総体が解を導く計算過程であり、まどかはそれを通して答えに到達する。)
まどマギ」を観る者は、条理によって感情が踏みにじられる痛みによって作品にひきつけられ、その痛みは、感情(魔女たちの呪いへの固着)が条理によって救われることによって浄化される。ここで対立しているのは法則(システム)と感情であり、敵は魔女でもキュゥべえでもなく法則(システム)で、だから、システムを律しているのと同じ法則(条理)によってシステムが改変されることによってのみ完結する。これは論理学的ゲームでもあり、物理的に不可能であるはずの密室殺人が物理的トリックによって説明されるミステリに近い感触だろう。
魔法少女たちの舞台装置」で指摘されるように、「過去から未来にわたって、すべての魔法少女は魔女になる前に消滅する」というまどかの願いは、まず、その言葉通りのものとしてかなえられ、次に、その願いと引き替えに魔女化する自分自身に対しても作用する。このことにより、まどかは(過去から未来にわたるすべての)「時間」の内部には存在できなくなる。まどかは、ある瞬間に消滅するのではなく、(改変された宇宙では)最初からいなかったことになり、それと引き替えに、まどかの願いがすべての時間のなかで有効になる。まどかは、自分の存在を犠牲にして宇宙を変える。まどかは、概念というより法則のようなものとなり、非人格的、抽象的な神となる。
だが、「ピンドラ」は、このような形での革命(世界の乗り換え)は本質的なものではない。教団-サネトシ-冠馬、そして、世界の乗り換えの度に自身の一部を損傷するももかという「世界を革命する」一派に対し、りんごによる「運命」という言葉の意味の変化こそが重要となる。「ユリ熊」でも、人の世界や熊の世界の変革ではなく、熊が人となり、人が熊となるような、関係によって生じる相互変化(相互作用)が重要となる。システムを捨てる銀子と紅花の場所は、システムの外であり、しかし世界の内であるような困難な場所ではあろう。
(「ユリ熊」における神=クマリア様とは、法則ではなく、純花やるるのような「関係を媒介する存在」のことだと言える。銀子と紅羽の関係は、銀子目線-熊側からはるるによって、紅羽目線-人側からは純花によって媒介される。だから、関係の数だけ媒介=神が存在するはずで、つまりクマリア様は世界に遍在する。)
ここで、「まどマギ」では世界そのもの(地-舞台)が変化するが、幾原作品ではわたし(図)が変化するのみだ、とみるのはまちがいだと思う。幾原作品で変化するのは「わたしとあなたの関係」であり(わたしとあなたの出会い+媒介者によって、わたしとあなたが変わり、その関係が変わる)、それは世界の全体ではないが、最小限の「地(社会)」を形成するものだ。幾原作品では、「わたしとあなた」の数だけ異なる世界があり、「環境としてある大きな共同性」に対する、ローカルで偶発的な(一回的な)地=世界の発見こそが世界の革命である。対して、「まどマギ」では、この世界は全体として一つであり、その唯一の全体の改変が問題にされる、ということではないか。後者において、世界を改変する者は世界の内にはいられなくなるが、前者にいては、「わたしとあなた」の相互作用が新たな世界の一歩目になる。
幾原作品のカップルは脱社会的であるが、カップルであることによって新たな社会への最小限の萌芽となり得る。「まどマギ」においては、世界の地をいっぺんにひっくり返すことが問題となり(そこにしか救済はなく)、それは論理的な解によってのみ可能だ、ということだろう。
(ここでは、「世界」と「社会」とをあえて混同して使っています。)