●『時間の正体』(郡司ペギオ幸夫)を読み返している。これはぼくにとってとても重要な本で、何度も読んでいて(理解出来ているとは言い難いのだけど――特に後半は)、多大な刺激や影響を受け、既に書き込みや傍線がたくさんあるのだが、そこにいくつもの「ポニョ」の絵が混じっているのだった。一つや二つではなく、ページをめくっているとけっう頻繁に出てくる。前にこの本を読んだ時のぼくは、なぜ、本を読みながら余白にこんなに繰り返し「ポニョ」を描いたのだろうか。描いたという事実さえ全然憶えていない(自分の手癖が見えるので自分が描いたことは間違いない)。難しくてなかなか頭に入ってこないから、気持ちを仕切り直すために描いたのだろうか。ほとんどが魚姿のポニョで、なかには、ガラス瓶に顔を突っ込んでしまっている状態のポニョまで描いてある。
(「ポニョ」の絵コンテの本を買った直後に読んでいたのかもしれない。)
●引用、メモ。『時間の正体』より。基本的なところ。おそらくぼくは、「こういう感じ」に最も影響を受けている。
≪膨張し、収縮するのは、この生身の肉体と肉体が知覚しているはずの世界との関係性である。この関係性が、身体と呼ばれているものだ。むしろ、通常肉体と一致するものであると考えられる身体が、膨張、収縮を経験することで、その差異を明らかにする。もちろん私は、身体が主体によって解釈され、もたらされるもので、肉体は所与である、と言いたいのではない。身体が、脆弱な認識の基底という態度表明をした結果、身体が認識する対象であるところの肉体に、その確実性を委託・仮構しているに過ぎない。したがって、「わたし」が土台でありながら不確実であるように、肉体もわたしの知覚世界におけるある種の極限でありながら、相対的で不定なものと理解される。「わたし」の膨張、収縮によって、「わたし」と「わたし」が認識する対象、または、「わたし」と「わたし」を配分する世界、のような階層性が顕在化する。そしてその階層性において、世界か対象のいずれかのように振る舞う「わたし」は、その境界が常に不定であり、点線であることによって、常に新たな変化を抱え込もうとするのである。≫
●この一年半くらいで、物理や数学系の本をずいぶん読んだので、前よりは入って行きやすいはずだ、と期待したい。