2024/04/01

⚫︎マイケル・フリードを初めて読んだのは1995年に出た「モダニズムのハードコア」に収録された「芸術と客体性」だったが、強く印象に残ったのは、同じ年の「批評空間」二期7号に掲載された「二つのレアリスムの間に」というテキストだった。「芸術と客体性」と全然違うし、こんな風に「絵画に触れる」人は他では見たことがない、という感じで深く印象が刻まれた。

こんな風に絵画に触れる人は他に見たことがないという印象は、改めて、今読み直しても変わらず、さらに、その絵画への特異な触れ方を「美術史家」として歴史に返すというか、歴史の上に配置しようとしている仕方もまた、とても特異なものだと感じる。

「二つのレアリスムの間に」は、ラトゥールという画家が、クールベ的な「身体のレアリスム」と印象派的な「視覚のレアリスム」との間の移行期に位置づけられるということを、代表作とはとてもいえないような、小さな自画像のデッサンを検討することで示そうとするテキストだが、そこでまず驚かされるのが、「身体のレアリズム」であるとされるクールベの絵の捉え方だ。

まず、グルーズ、ダヴィッド、ジェリコードーミエ、ミレーに至る、フランス絵画の「反演劇的な流れ」があるとする。彼らは、描かれた人物が観者に対して「芝居がかった」感じをできる限り感じさせないように努めるような絵を描いた。ただし、そのような傾向を追求し続ける過程で、次第に、その、あまりに「芝居がかってなさ」こそが却って「芝居がかって」感じられるようになってしまうという反転が起きた。そうした文脈の中でクールベという画家が出てくるのだ、と。

《この戦略とは、内面に籠って集中することや絵の前に立っている観者を遮断し締め出してしまうのではなく、何か全く別のやり方、つまり今や絵の最初の観者と見なされる画家(あるいは画家=観者)の、制作行為に於ける絵画そのものとの半ば身体的な結合である。少なくともその観者との関係によって、絵画は一方的に見られることから完全に解放されることになる。もはやだれも作品の前に立って見ているものはいない。なぜならそこにいたはずの観者は今や作品の中に取り込まれ或いはまき散らされているからである。》

《例えば私には、『石割り人夫』(一八四九年)で、ちょうど年長の男がハンマーを振り上げている姿が画家=観者がその絵を描くために使っている絵筆をふるっている右手とつながっているかに見えるように、石のはいった籠をもったほとんど後ろから描かれている若い男もまた、単に画家のパレットを持った左手を擬人化しているかもしくは擬人化するために描かれた人物であるだけでなく、その姿がほとんど画家=観者の手と、それが制作に一役買おうとする努力に、つながっているように見える(スティーヴン・メルヴィルの言葉を借りれば、少年と男は絵の中で画家=観者の左手と右手の行為を延長しているかのように見えるかもしれない)。この関係に於いて、『石割り人夫』の中の左と右が如何にその「外部」の左と右に、つまりこの絵を制作中の画家=観者の左右の位置に合致するかということに注目すべきである。》

《同様に、クールベの見事な作品である『小麦をふるう女』(一八五四年)では、小麦を床に敷いた麻布(キャンバス)の上にふるっている後ろから描かれた中央の跪いている人物が、自分の前に張ったカンヴァスの上に絵の具をおいて行く画家=観者の行為と位置とを体現していると見ることができよう(言い換えれば描かれた女性だけではなく、ふるわれた小麦や床に敷かれた麻布も絵画の隠喩、あるいはむしろ換喩の役割を果たしている)。画面左手に座って夢見心地で小麦と籾殻を手で選り分けている女性は、画家=観者のバレットを持つ左手の変形したものだと読むことが出来るだろう。一方小麦をふるう初期の機械である唐箕の黒い内部を身を乗り出してのぞき込んでいる少年は、画家=観者が絵の中に(物理的に不可能であるが)組み込まれまき散らされたために、絵を見ることが否定されたことを示唆している。》

初めてこれを読んだ時は驚いて「まじか…」と思った。絵を観るというより、絵を媒介として、(すでに「ここ」にはない)画家の身体へと逆流して「描いている身体」へ侵入し、「絵を観るわたし」がその位置を占めようとするかのような感覚。絵を観ている「わたし」の視線が、絵によって反射され、それが「ここ」に戻って来たときはもはや「ここ」は「今」でも「わたし」なく、かつて「そこで描いていた画家の行為」へと時間が逆流するかのような。あるいは、絵の中にバラバラに切り刻まれて散っている、画家の身体と描く行為とを、観ることを通じて再構成するかのような。「絵の手前」で行われた行為が、絵の中にバラバラになって溶け込んでいて、それを観ることで、その行為する身体がもう一度「絵の手前」で(「わたしの身体」を憑代として)再現される感じ。その時「わたしの身体」の少なくとも一部は絵の中に溶け込んでいるから、わたしと絵とは連続しており、その絵を「的確に見るための距離」を取ることができない。

フリードが、『小麦をふるう女』に描かれた「唐箕をのぞき込む少年」について、《画家=観者が絵の中に(…)組み込まれてまき散らされたために、絵を見ることが否定された》と書いていることは重要だ。《(…)クールベ以前の反演劇的な伝統における画家たちが画面の前の観者の存在に対して実際に盲目の絵画を描こうとしたのに対して(…)、クールベのレアリスムの作品が画家=観者の盲目を喚起する点を指摘することだろう。あるいはそれが言い過ぎなら、クールベの作品は目の前の作品との肉体的な結合が引き起こしたであろう視覚の喪失[蝕]を喚起する。》

(《画面の前の観者の存在に対して実際に盲目》というのは、いわゆる「没入」のことで、描かれた人物が、観者あるいは「自分を観ているかもしれない誰か」のことをまったく意識していないかのように振る舞っているように見えるように描かれているということ。しかし、そのような「振る舞い」こそが却って「芝居がかって」見えるようになってしまったという閉塞から脱するように生まれたのが、クールベの「身体のレアリスム」だ、と。)

クールベをこんな風に見ることが出来るのか、というか、絵画に対して「こういう触れ方」があるのか、という驚きがあったし、その驚きは今もなお持続している。