小林正人「絵画の子」(1992年)

●13日に観た小林正人の「絵画の子」(1992年)は、画家の手によって時間をかけて制作されたものではなく、あたかも、ある光の状態が一瞬にしてフリーズされ、全ての要素が同時に成立しかたのように見える。ここでは、キャンバスの地の白と、そこに不均一に散らばる黄色の絵の具の濃淡との絡み合いは、まるで、暗い部屋の窓にかかったカーテンを開けたとたんに入り込んだ光によって、一瞬にして浮かび上がったホコリの散らばりがそのまま定着され、それが一人の横たわる人物の図像をかたちづくったかのようだ。そこには図像と背景との明確な分離もなければ、上の層と下の層という区分もないかのように見える。画家自身が言う、純粋な単体としての絵画をたちあげる、ということが、実現されているようにさえ思われる。
しかしこれはやはりある種の錯覚で、画家が実際には時間をかけて絵を描くしかないように、それを観る者も、実際に絵を観る時は、どうしたって時間をかけて観るしかない。白いキャンバスの上に薄く散らばっている黄色い絵の具の不均一な散らばりの「不均一さ」を目で追う時、それを観る者は時間をかけて画面のあちこちに目をはしらせることで、その部分部分における、白い地と黄色い絵の具の絡み合いによって感じられる「光」の明滅を受け取り、その印象(入力)が次々積み重なることによって、一枚の絵画を観た、というトータルな印象(出力)がかたちづくられる。だいたち、絵を見続けている限り、新たな感覚的な印象が次々と目から入り込んで来て、それ以前の印象に加算されてゆくはずなのだ。だから、あたかもすべてが一瞬のうちに、同時に成立しているかのようだ、という印象が構成されるのは、その絵の前を離れた後になってからか、または、その絵を前にしていても、とりあえず「その絵を観た(理解した)」と思って、一旦「新たに観る」ことを休止した後になってからであろう。(明らかに、白い地と黄色の絵の具という二つの層があるのだが、その二層の絡み合う明滅を観ているうちに、それらが混ざり合って一体になっているかのように感じられてくる。)
だいたい、空間を感知するということは、差異やズレを感知するということで、だから最低限二つの異なる層(の落差)がなければ、そこに空間は発生しない。例えばバーネット・ニューマンは、ジップと呼ばれる細い色の帯を垂直に天に向かって画面にはしらせることで(つまりたった二つの層だけで)、何もない色彩の広がりから「空間」をたちあげる。そこにあるのは、たった今空間がたちあがった瞬間、空間が生まれるその原初的な瞬間であり、差異そのものの体験であり、そして、それ以外のものはなにもない。その絵はまさに一瞬にして全てが理解され、そして、いくら長く観ていても、それ以上のものはなにも出てこない。ニューマンは、そのような空間の発生現場のみを、繰り返し何度も描く。(いや、人は何もない白い壁を観ていても、そこに自らの心理や欲望が投影された何かを見るし、あるいは、自らの眼球の傷や汚れや歪みを見るのだから、そこに「なにも見えない」ということはないのだけど。)
小林正人の絵画は、そのようなものとは異なる。どちらかといえば、差異を経済的に切り詰めることで、色彩そのもののもつやわらかな広がりを強調して見せようとするロスコの方に近いといえるだろう。(ロスコの絵がニューマンよりも長く観ることが出来るのは、色彩がより練られているというだけでなく、同じ色彩を、何度も改めて「新たに発見させる」ような構造があるからだろう。それは循環的な構造であり、やや呪術的なものではあるが。)しかし、小林正人の掴もうとしているものは、色彩であるよりも光であろう。(もし、絵画における「光」という側面に興味がないのならば、この時期の小林正人の絵画はたんに貧弱なものに見えるかもしれない。)だが、みすがらが発光するわけではない絵画が、光を捉えるとはどういうことだろうか。
絵画が光を捉えるということは、印象派の絵画のように「光をおいかける」ということとは異なる。(徹底して光を追いかけるモネは、それを突き抜けて、粘度の高い、なめくじがうねるような絵の具の質感やタッチそのものの方を露呈させてしまう。)感覚的な書き方しか出来ないのだが、それはキャンバスという広がりを、光を留め置く装置とする、というようなことだ。(印象派よりも、オランダ絵画、ハーグ派から初期アンソールのような感じと言えばよいか。ターナーよりもクールベ(の曇り空)。あるいは、セザンヌよりもマティス(の白い地に対する特別な感覚)。)それは、キャンバスの白い地に当たって反射した光を絵の具がどのようにして屈折させ、その反射の遅延の落差をざわつかせるか、あるいは、白い地のひろがりを、黒い(か、または別の色の)線や点の散らばりがどのように振動させるか、にかかっているように思う。ここで光とは、実際の光そのものであるよりも、ある種の「透明なもの」というような概念の比喩たりうる実質をもった「光の感触」ということなのかもしれない。
小林正人が「純粋な単体」を指向し、「出来上がったキャンバスの上に描くのでは一層多くなってしまう」ので「すべてが同時に完成しなければならない」と考えるのは、絵画の形式上の問題であるより、むしろ「光」を捉えるためなのではないかとさえ思われる。「絵画の子」においては、描かれる対象も、その対象を存在させる空間も、光によって照らし出されるのではなくて、光とともに(光と同時に)生まれるかのように描かれている。そのことが、フレーム内部のすべてが一体化していて「(支持体も絵の具も図像も空間も)すべてが同時にたちあがる」ように感じさせる、わけなのだが。前述した通り実はそれは決して「同時」ではないのだが、事後的に「同時」であるように感じられるのは、全体が部分には分ちがたいような細かな粒子状の振動(明滅)によってできているからだろう。その粒子状のものとは、点描派のような均一なタッチではなく、動きも大きさも透明(濃さ)も一つ一つ異なる不均一なタッチの広がりなのだが、しかし粒子状であると認識出来る程度には粒がそろっていて、その一つ一つのタッチが、まるで樹木にびっしりとついた一枚一枚の葉が、それぞれバラバラに、しかし連続して分ちがたく、風でゆらゆらと揺れているように振動しているのだ。そのタッチはほぼ同じ色の絵の具の濃淡で出来ていることから、連続性が強調されるが、しかし、黄色い絵の具の広がりは常に地の白が繊細に意識され、それとの対比によって浮かび上がるので(場所によっては黄色が図となり、場所によっては白い地が図となるので、全体として二つの層は分ちがたく混じり合っている)それは均一なモノクロームのひろがりとは違って、常に視線を活気づける。