●展覧会をいくつか観た。以下、印象に残ったのもについてのメモ。
●京橋のギャラリー・ユマニテ東京で川島清。川島清の作品は、それ自体で成立していて、外の空間へ向かって関わりを広げてゆくようなものではないと思う。木と鉄や鉛の関係、あるいは木材とそこに塗られるタールのようなものとの関係、あるいは、加工されていない木の根と、加工された「道具」であるクサビやネジなどとの関係は、あくまで作品内部において関係づけられているように思う。でもそれは、「作品」としての、造形的、美学的な関係づけではなくて、物質としての存在の次元での響き合いのようなものが目指されているように思える。加工されていない木の根に、人工的に精製され、人の目的によって道具化された鉄のクサビのようなものが打ち込まれていても、それがあまり浮いた感じがしないというか、暴力的なにおいがしないのは、それが、人が精製した物質であり、人がつくりだした道具だという側面よりも、鉄や鉛もまた、地球の成分の一部であり、そこから分離されたものであるという側面が大事にされているからなのだろう。(ただ、造形的な面からみると、枕木のような木材はともかく、そのままの木や根をもってきて作品の一部とするのは、ちょっとずるいんじゃないかという気もする。)衝撃的だったのは(作品としての善し悪しというのとは意味が違うのだけど)、一点だけ小品で、木の切り口に蛍光オレンジのような塗料が塗られている作品があって、その「色彩」の異質性にすごくドキッとした。色彩というのは、こんなにも暴力的なもの(存在とは異質のもの)なのかと思った。
●国分寺のスイッチポイントで、井上実。井上実の絵の多くは、キャンバスの上で、絵の具が塗られている面積よりも、塗られていない面積の方がずっと大きい、白っぽい絵である。にも関わらず、それは決して引き算の絵ではなく、足し算の絵なのだと思う。つまり、我々が日々感じている雑多な「感覚」から、様々な要素を差し引くことによって形式的な洗練を目指すのではなく、絵画の上に、少しでも多くの、少しでも強い感覚の混合を実現させるためにこそ、細い筆でぼそぼそと擦れた絵の具をこすりつけるようなやり方が選択されている。(つまり、下地をつくって、その上に二層目、三層目という風にして構造をつくるのでは、感覚の雑多さをダイレクトには捉えられないから、白いキャンバスの上に、細い筆でいきなりぼそぼそと絵の具をのっけてしまう、ということだろう。)しかしこれはやはり危険なやり方で、全ての作品において成功するわけではなくて、しばしば、「センスの良いこぎれいな作品」となってしまうことも事実だろう。色彩の強い対比をつくらない井上実の絵は、画家が自らの感覚に対してすこしでも弱気になると、全体に色調を抑え気味にして調整する、という感じになってしまい、「淡くうつくしい」が、リアルではないもの(つまり、引き算で描かれたようにみえてしまうもの)になりがちではある。
今回の展示では、昆虫を描いた二点の作品で、井上氏には珍しく、画面のほぼ全ての部分に絵の具がのっている作品がある。しかしおそらく、これらの作品も、はじめから全体を絵の具で覆うことが予定されていたのではなく、細い筆でぼそぼそのせられる絵の具が、次第にその密度を増していった結果そうなったのだと思われる。これらの作品の色彩は非常に「濃い」のだ。それは濃い色が使われているということではなく、わき上がってくるような感覚的な密度の濃さをもった色彩ということなのだ。(この「濃さ」は色彩の派手さや、絵の具の物理的な厚さとはまったく別の次元のものだ。)このような濃密な色彩を実現できるということからも、井上実が決して引き算の画家ではないことがわかるだろうと思う。
●今日の天気(06/11/09)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1109.html