冨永昌敬・執着しないこと

●昨日の晩あたりから、急に冷えてきた。
冨永昌敬の面白さが他の誰に似ているかといえばやはり阿部和重で、どちらも「男の子たち」の関係性をとても魅力的に描く。しかし、阿部和重の描く男の子たちと違って、冨永昌敬の描く男の子たちは、ほとんど執着心をもたない。執着心をもたないから努力もしない。だから、『ニッポニア・ニッポン』の主人公のように、孤独に観念を育てていったりしないし、『インディビジュアル・プロジェクション』の主人公のように自分を鍛え上げようともしないし、『シンセミア』の男の子たちみたいに、盗撮ネットワークを通じて新たな権力を打立てようともしない。作家としての阿部和重が常に向上心をもち、努力を重ねて、『シンセミア』のような異様な構築物をつくりあげてしまうのに対し、映画監督としての冨永昌敬は、メジャーでちゃんとした長編映画よりも、思いつきと内輪ノリで適当につくったような短編の方でこそ、その魅力が発揮される。(内輪ノリのものが、マニアックで閉じたものになってしまわないことと、「執着心のなさ」とは、どこか関係しているように思う。念のために付け加えるけど、何にしろ「作品」をつくるというのは相当に面倒臭いことで、その労力に対して支払われる対価、お金や賞賛や理解は、ほとんどの場合あまりにも少ないもので、つまり、作品をつくる人というのはそれだけで常に「余計な努力」を頼まれもしないのに買って出るような人で、だから冨永昌敬が「執着=努力しない人」だといっているわけではない。)冨永昌敬の登場人物たちもまた、ある関係のなかである位置を占めるために争ったりはするだろうけど、それはあくまでその場での話で、場面が変わればすぐにそんなことは忘れてしまうから(つまり執着しないから)、努力もしないかわりに確執もつづかない。ある関係のなかでの優劣や権力は、その場その場において打立てられ、しかし次の場面までは継続しないし、固定されない。(しかし、過去の様々な争いの記憶は、感触として何となくその「関係性」に影をおとしてはいる。)冨永昌敬の映画において、長編の時間が「もたない」のは、長編を成り立たせるための説話的な持続を支えるような、一定の関心事の持続を、その登場人物たちがもてなくて、彼等は移り気で常に関心をあちこちに移して、すぐに前に気にしていたことなどどうでもよくなってしまうからではないだろうか。そしてそのような、決して努力しないし、執着もしないような人物たちの有り様が、冨永昌敬(とその仲間たち)のつくる映画の、独自の開放感をつくりだしているように思う。(『木更津キャッツアイ』みたいな「男の子たち」の関係は、ちょっと理想化されすぎていて、嘘っぽいのだけど、冨永昌敬の映画の人物たちは、もっと根本的に、リアルにだらしなくって、バカっぽいところが良いのだ。)
●ちょっと前のことだけど、電車のなかで話していた若いカップルの話が印象に残った。会話から察すると、そのカップルは二人ともスポーツジムの講師をやっているみたいで(でも、全然そんな風には見えなかったのだけど)、女の子の方はダンスの先生みたいで、男の子に、私はどうしても生徒さんの名前が憶えられない、と話していた。男の子は、俺もなかなか憶えられないけど、でも、ノートに書いたりして努力して憶えてる、最低限それくらいはやろうよ、と言うのだが、女の子は、一度憶えても、その生徒さんがレッスンを二週間くらい休むと、また忘れてるんだよねえ、親しそうに話してても、いきなり名前間違ったりして気まずいんだよね、と笑いながら、あまり深刻ではなさそうに答えるのだった。だから、それはまずいって、ちゃんと憶えようよ、と男の子は苛立たしげに言うのだけど、私の頭はそういう風に出来ちゃってるんだよね、この頭で生きていくしかないんだよね、みたいな感じなのだった。ぼくはその話を耳にはいるまま聞いていて、その女の子のあまりにあっけらかんとした努力のなさというか、反省のなさに、ちょっと感動していたのだった。普通、気楽なアルバイトみたいな立場でも、その場にいると、それに合わせて思わず努力なんかしてしまうものだし、それによって知らず知らずのうちに何かに「取り込まれて」しまうものなのだから。
●今日の天気(06/11/08)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1108.html