『シャーリー・テンプル・ジャポン』(冨永昌敬)

●『シャーリー・テンプル・ジャポン』(冨永昌敬)をDVDで観た。すごく面白い。才能があるっていうのは、こういうことなのだなあ、と思った。やっていることと言えば、アイデアとしては面白いものの、ちょっとした思いつきに過ぎないようなことなのだけど、冨永昌敬(とその仲間たち、と言うべきか)がそれをやると、他の人がやったのでは決して出ないような、独自の面白さが宿る。(何と言うのか、「こういう人たち」を撮れるのは冨永昌敬くらいだと思う。)作品というのは、構想とかコンセプトとかの段階で生まれるものではなく、作品をつくってゆく具体的な作業のなかでこそ、その基盤がかたちづくられ、広がりが生まれてゆくものなのだということを、そしてそのなかで何かを掴んでゆくことこそが才能なのだということを、あらためて新鮮に思い直すのだった。(だから逆に、製作の過程が作家の資質にあわなかったりすると『パビリオン山椒魚』のようなつまらない作品になってしまう。『シャーリー・テンプル・ジャポン』を観ると、『パビリオン...』の退屈さが嘘のようだ。おそらくあの映画では、それぞれの俳優たちをちゃんと撮らなくては、とか、観客を飽きさせないようにネタを沢山仕込まなくては、とか、話を分りやすくしなくては、とか、いろんなプレッシャーがあってあのようなものになってしまったのだろう。)
この映画はパート1とパート2とで同じ物語を違ったやり方で二度語っているのだけど、パート1が、その「狙い」が割合上手くいっていて冴えたものになっているので、もう一度改めてその物語をやり直すというのは、「語りの形式」の違いばかりが際立ってしまうような(わざとらしく「差異と反復」を狙ったような)ものになるのではないかという危惧を感じながらパート2のはじめの方を観ていたのだけど、しばらく観ているうちにそんな危惧は消えてしまった。というか逆に、もしこの映画がパート1だけで出来ていたら、「冨永昌敬ってやっぱ才能がある冴えた監督なんだなあ」ということを確認するというだけで終わってしまったかも知れないけど、パート2があることによって、「ああこれは本当にいい作品だなあ」と感動することろにまで至る。パート2が、たんなる形式的な差異を強調するだけのものではないということがはっきり感じられたのは、杉山彦々のホースを使った放尿シーンのような場面で、こういう感じのバカな感触が、パート1のようなやり方だとなかなか出せないから、パート2があるのだなあと、納得するのだった。(このシーンは、杉山彦々だからこそ成立するシーンで、もしオダギリジョーがやったら、下らない悪ふざけにしかならないと思う。だからこの映画の良さは、冨永昌敬という作家にだけ帰するのではなくて、「その仲間たち」があってはじめて成立するものなのだろう。)そして、森で拾ってきた壊れたスピーカーを修理しているシーン(これはパート1にはない)の、男三人の醸し出す空気が何とも素晴らしい。後からやってくる四人目の「有権者」である女の子は、パート1では、このダメダメな男三人組に対して完全に「引いている」感じだったのだけど、パート2の女の子は、この三人のバカなやり取りを、好ましいものを見るようなやわらかい眼差しでみつめていて、この眼差しにもまた、感動するのだった。(ただ、パート2のフランス語のナレーションは余計で、ない方がよいのじゃないかと思った。こういう余計なネタをどんどん重ねてゆくと、おそらく『パビリオン山椒魚』のようになってしまうのだろう。)
パート2が、パート1のたんなる反復ではなくて、それを発展させたものであると同時に、異なる内実をもつものになっていて、それが作品全体を豊かにしている(パート2によってパート1がさらに豊かに感じられる)のは、おそらく、それ自体独立したものとしてパート1がつくられてから一年後に、劇場公開のために改めてパート2が撮り足されたという事情も関係していると思う。「亀虫」もそうだったけど、はじめから「連作」として構想されるのではなく、一定の時間を置いた後、偶然、「次」の機会が訪れて、改めて撮り足される、という繋がり方が良いのだろうと思う。作品は(特に映画はそうなのだろうけど)、ただ作家によってつくられるのではなく、そのつくられる具体的な時間や、その過程のいろいろな事情も含めて、形作られるのだ。
●今日の天気(06/11/07)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1107.html