神話は、現実を事後的に説明するためにつくられるのではない

●神話は、現実(今、こうである状態)を事後的に(権力者にとって都合良く)説明するためにつくられるのではないだろう。そうではなくて、神話によってこそ現実が解釈される。つまり神話があるからこそ、現実が「今、このように」ある。人は、神話によって、たんなる現実を「このようなもの(意味)」として「生きる」ことが出来る。世界は、神話によって説明されることによってではなく、神話に従って解釈されることで、「神話化」する。神話は、知覚や認識を眠らせ、ねじ曲げて、現実を神話に従って(知覚や認識を神話の秩序に従わせることで)つくりかえる。だからまさに、世界は神話によって創造される。それはたんに、太古の人たちや未開の人たちにとってそうだというだけではない。例えばフロイトが夢について書いていることも、そういうことだろう。亡くなった息子が「お父さん、わからないの!」と呼びかけてくる夢を見て目覚めた父が、今まさに火がついて燃えようとしている息子の遺骸に気付き、その火を消した時、その、たんに「燃えているから火を消す」という行為は、「夢」との関係によって、父の不理解を糾弾する亡き息子の呼びかけに対する答えとして(意識されぬまま)解釈される。(父は、そのような夢をみることによって、かつて息子の言い分を十分に聞かなかった過去に思い当たり、そこに罪悪感をもつ。)つまり火を消す行為が、息子の言う事を充分に聞く事をしなかった自らの後悔に対する代償行為という意味として「生きられ」ることになる。父はなにも、息子の問いへの答えとして(代償行為として)火を消したわけではなく、ただ目の前で燃え広がろうとする火を食い止めるために反射的に火を消したに過ぎないのだろうが、しかしそれが事後的に、代償行為として(意識されないうちに)解釈されることによって、多少なりとも息子への罪の意識を軽減させることになる。人間にとって「現実」とは、ただ「火を消す」という行為が同時に、息子からの問いかけに対して「答える」(罪滅ぼしをする)という「意味」でもあるという風にして「生きられる」ものなのだった。神話=夢が「現実」を創造するというのは、そのようなことなのだ。
言語もまた、神話や夢と同様に機能するだろう。つまり我々は、言語の秩序に従って「現実」を解釈し、その解釈された(解釈によって創造された)「意味」を「生きる」。しかし、もともと言語は、事実を記述したり思考を組み立てたりするためにあるのではなく、ある主体が他者を求め、他者へと手をのばし、他者へ向かおうとする「叫び」にその根拠をもつもので、常にそれを発する者の欲望によって染められ、変形されている。だが、それは同時に、私が生まれる前からあり、その環境、その秩序は既に決定されており、つまりそれは私の思う通りにはならず(私一人では完結せず)、私の方がそれにあわせて自らをつくりかえなければならない。私が他者を求める(生物としての)力動に貫かれている以上、私には言語の秩序を受け入れるしかしかたがない。地球が、宇宙が、私が生まれる前からあるのと同様、言語もまた、私が生まれる前からある。しかし、地球や宇宙がそれ自身を根拠として「存在している」のとは違って、言語はそれを話す人たちの共同性によって存続しているに過ぎす、つまり自分自身を支える究極的な根拠をもたず、底が抜けてしまっている。言語の意味や秩序は、他人も同じようにしてそれを使っているからという曖昧な「信頼」に基づいており、それをシビアに追求すると果てしのない自己言及の罠に陥るしかなくなる。つまり我々の生きる「意味」のある「現実」とは、「他者も同じようにそう使っているから」というような曖昧な信頼(=依存)にしか根拠をもたない言語的な秩序によって現実が「解釈」されることによって成立する、きわめて曖昧で不安定な「意味」によって出来ている。この曖昧さを少しでも厳密にしようとすればする程、人は「生きる」ことから遠ざかってゆくだろう。象徴的なネットワークは、それをいくら執拗に掘り下げても、その底、その根拠へは行き当たらず、つまり決して満足を人に与えることはない。(しかし、言語の根拠を過去に、人々がずっと長い時間このように使ってきた、ということに求める時、そこにはある程度の手応え=密度=満足があり得るようにも思われる。)
●象徴的なネットワークはそのように不安定である(根拠がない)ため、人はそこからしばしば落下するだろう。しかしそれは決して「自由」というようなものをもたらすものではないだろう。象徴的なネットワークから落下して「なにものでもない者」となった私には、あらゆる「意味」が可能ではなくなり、つまり人間としての現実=生が不可能になる。『獅子座』(エリック・ロメール)の主人公の男が、現実へのあらゆるアクセスポイントを失い、なにものでもない者として目的もなくただ歩くしかなくなった時、そこには確かに、神話的、言語的な秩序から離脱した、強烈な感覚としての視覚像の数々が訪れる。しかし、男はそれをただ純粋な苦痛として受け取るしかなく、それを有用に組み立てる術もなく、ただ自身の身体を純粋に受動的な器官として世界に明け渡すしかないだろう。(それに比べ、ロッセリーニの『ストロンボリ』においてイングリット・バーグマンは常にエゴイスティックなほど「主体的」に行動している。彼女はどんな状況においても自分の欲望に対して譲歩しようとはしないし、行動をあきらめない。島の女たちの習慣に、ほんの少しも合わせようとはしないし、全く「空気を読む」気配もなく、浮きまくっても自分の生活習慣を変えない。島を出るためなら神父さえ誘惑しようとするし、仕舞いには無謀にも、たった一人で火山を越えようとさえする。そして、島で最も俗っぽく信仰心のない、ただひたすら利己的に行動するこの女に、神は奇跡を与える。この映画はまるで、この女の行為を象徴界における唯一可能な行為としての「自殺」だとするジジェクに、ネタを提供するためにつくられたようにさえみえる。『獅子座』の男は、「なにものでもない者」から浮浪者になり、そしてラストには大金持ちになるのだが、その変化は男そのものとは全く関係ないところで起こる。対して、『ストロンボリ』の欲望に従う女は、ラストでは確実に、この女自身が変質している。)
ジャック・リヴェットの映画は、様々な薄っぺらの紋切り型が組み合わさって出来ている。例えば『北の橋』には、組織から陥れられて服役していて、刑務所から出て来たばかりの女が登場する。女は、何者か分らない少女と出会って行動を共にする。久しぶりに会えたその女の恋人は、何やら危険なことを企んでいるらしく、様子が変で、彼のまわりには、怪しげな人物たちが取り巻いている。危険な取引、その背後の組織、男が隠している秘密。取引される鞄はすり替えられ、その中に入っている謎を解く鍵であるかのような地図は盗まれる。地図を解読しつつパリの町を移動し、殺人事件に出くわし、恋人に疑いをもちながらも彼を助けようとする女....等々、多くのヌーヴェルヴァーグの作家と同様に、犯罪ものの映画やフィクションのジャンル的な記号や配置がなぞられている。(リヴェットにおいてはここに軽いオカルト趣味が加わる。)ここでは、ジャンル的な記号や記憶が、神話的・象徴的な秩序として働いている。しかし『北の橋』では、それらのジャンル的な記号の機能はあまりにも粗っぽい。それはジャンルの解体、脱構築というようなものですらない。(ゴダールだったら、そのようなものとして観られもするだろうけど。)『北の橋』の面白さは、その徹底した下手糞さ、だらしなさにある。『北の橋』はまるで、あまり映画を見た事もない素人が、たいして考えもせずに適当に撮ってしまった映画のようにみえる。(実際は、リヴェットはヌーヴェルヴァーグの作家のなかでも最も沢山映画を観ている人として知られている。)謎は機能せず、サスペンスは盛り上がらず、物語が停滞して、時間はだらだら流れる。画面には、神話的な秩序とも、その解体とも関係のない、パリの風景や騒音の切片がだらだらと流れ込んで来る。俳優たちは、役を演じるでもなく、自らの身体的な現前を強く押し出すでもなく(何か「映画的」な気の利いた仕草をするでもなく、フレームのなかにきちんと納まるでもなく)、ただでくのぼうのように突っ立ち、歩き、へっぽこな空手の型をみせたりする。映画の時間は、物語としての時間でもなく、それ自体として(映画として)充実した時間でもないような、ただ人が突っ立っていたり歩いたりしている散文的な時間へとすぐにこぼれ落ちてしまう。それは『獅子座』にみられたような、なにものでもない者が受け取る強烈でよるべない感覚とは違う。なにしろ紋切り型であることによって登場人物たちは「役割」だけは常に保証されているのだから。ただ、粗い編み目のザルから砂がだらだらこぼれるように、余計なものがいろいろと画面に写り込み、マイクに拾われて、それらが溢れる。それらの一つ一つはイメージとして明確に結像することなく、なにか画面がガチャガチャしてて落ち着かないとか、雑音が多くて人の声が聞きとりにくいとか、そういうモヤモヤとした感じとして引っかかり、それが塵のように(軽い退屈と共に進行する映画の時間のなかで)蓄積されてゆく。例えば、「運命」というのは、あらかじめ決まっていた通りに出来事が起こることではなく、偶然起こった出来事が、事後的に神話的・象徴的な秩序のなかに自らの場所を見いだし、そこへと落とし込まれることだろう(まさに、フィクションにおいて伏線が回収されるように)。しかし、出来事に至らず、イメージとしても結ばれない、それ以前の塵のような無数の現実の切れ端は位置をもつことが出来ず、「運命」から逃れて、ただ溜まってゆき、歯車を軋ませ、滑りを悪くさせる。
●DVDで『Mの物語』(リヴェット)を観た勢いで、随分と久しぶりに『北の橋』のビデオを探し出して観て、ぼくは何でこんなにリヴェットが好きなのだろうか、こんなに好きで良いのだろうか、と考え込んでしまったのだった。リヴェットを観るといつも、自分でも「映画がつくりたい」という気持ちがむくむくとわき上がってきて、困ってしまうのだった。
●今日の天気(06/11/06)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1106.html