2025-12-27

⚫︎コンプソンズ『愛について語るときは静かにしてくれ』をU-NEXTで。この作品は途中で「意外な展開」があり、それについて触れずに感想を書くことができないので、「ネタバレ」しているので注意してください。

コンプソンズという劇団を知ったのは、『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(近藤亮太)という映画が面白くて、この映画の脚本を書いた人の名前(金子鈴幸)で検索したらこの劇団の劇作家・俳優で、そして劇団の公演の映像をU-NEXTで見られることも知ったのだった。

今年の九月に『岸辺のベストアルバム』という作品をU-NEXTで観て、「好きだけど / 嫌い」「面白いけど / 面白くない」みたいな、アンビバレントな感想を書いた。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

おそらくこの劇団がやろうとしていることは、まずは、「あえて」オールドタイプの小劇場ノリ(平田オリザ以前 ! )を遂行し、「あえて」(しばしば悪の元凶のように言われる)サブカル的な内輪ノリ・内輪ネタの徹底を遂行するということだろう。この「あえて」なされるアイロニーとしての小劇場ノリ・内輪ネタの徹底は、「あえて」であるからこそ厳しく磨き上げられていて、驚くほどの密度とキレにまで到達しており、ぼくなどはこのレベルで(サブカル文化コンテンツ消費者として)とてもとても楽しく観られる(演出もキレているし俳優の力量もすごい)。この、内輪ノリに込められたキツめの毒とアイロニーの感触は、あまりにも素朴に、ベタに、まるく平たくなりすぎた現在の文化・芸術的な状況の中で、極めて稀有で貴重なものであるように思われる。

(ここで現れる「毒」はアイロニーとして濾過されていて、たとえば『インポッシブル・ギャグ』における「余裕なくとにかく連打される捨て身の毒」とは感触が異なり、嗜好品的な洗練がある。)

しかしそれは第一段階だ。この、高密度に磨き上げられたアイロニーとしての毒と内輪ノリは、十分な展開を見せたのちに、最終的には(作品がクライマックスに至ったところで)相対化され、(お遊びはこれまでだ、とでも言うかのように)ガチでシリアスなモードへと転換される。『岸辺のベストアルバム』では、この転換がぼくには納得できなかった。それはガチのシリアスではなく、シリアス・モード(小劇場的シリアス・モード)へのモード変換に過ぎないのではないか、と。しかし『愛について語るとき…』では、このシリアスへの転換が、物語(主題)上の転換と結びつくことで作品としてガッツリと構造化されている。

30歳になろうとしているのに一本の映画も完成させられていない(なんとなく)映画作家志望の男性と、人気ゲーム配信者だが30歳を手前に将来に不安を感じ始めている女性というカップルを中心とした、現代の都市(下北沢)に生息するサブカル・アート界隈の(もはや若者とも言えなくなった)若者の姿を描く、あるあるネタ的なリアリズムの話かと思って観ていると、実は、ディストピア的な未来が舞台になっていたことが、途中からわかってくる。

日本は、ミサイル攻撃と再度の大震災(それに伴う再度の原発事故)に見舞われ、「ダブルブッキング」とよばれるその出来事以降、それ以前の世界とは大きく様相が変わってしまっていた。戦争が常態化し、ゲーム配信者の女性も、その弟と自称する謎の男性も戦災孤児であり、女性の配信する「ゲーム」とは、リアルな殺戮ゲームで、彼女がVRを通じて操作するドローンで、実際にどこかの国の都市が破壊され、人々が殺されている。彼女の学生時代からの友人は、「(殺戮のための)優秀なドローン操縦者」である女性をケアするため政府から派遣されたエージェントであった(映画作家志望の「彼」も、彼女の精神の安定のためにエージェントによって「あてがわれた」人物だ)。

同じ舞台でも、背景にある「設定」の変化によって見え方が変わる。登場人物たちが楽しげに(遊戯的に)語っていた「サブカルの死」とは、我々が普通に言うような「サブカルにはもう意味がなくなった」ということ(「映画の死」をネタに映画好きが盛り上がるように「サブカルの死」をネタにサブカル好きが盛り上がる、というような)ではなく、戦争で文化が文字通り壊滅し、そもそもそんなものを生む余裕などない世界で、あたかも化石のような貴重品として「新垣結衣のCD」が発掘される、という世界だったのだ。ゲーム配信もそろそろ潮時ではないかという彼女の「悩み」も、背景が変わるとその意味や重みがまったく違ってくる。そのようにして、アイロニーと毒と内輪ノリの遊戯的モードが一挙に相対化され、アイロニー・モードからシリアス・モードへの転換が、物語・設定の転換と連動して行われる。

(ドメスティックな「内輪ノリ」が、アイロニカルかつ真剣に高度なパフォーマンスとして「演じられた」のちに、それが相対化されるという、矛盾する二つの態度が同居することが、他ではあまり感じたことのないふしぎな感触を惹起させる。)

唐突に「戦争」が導入されるわけだが、現在の我々は普通に生きていても戦争を意識しないではいられない状況なので、この唐突さは気にならないだろう(むしろ、現在におけるリアリティだと感じる)。ただ、この作品にはもう一つシリアスな問題が提起されていて、それは「子供への暴力」だ。舞台となるアパートに近くでは最近、子供が殺されるという事件があった。そして、ゲーム配信者の女性の隣の部屋に、おねショタ鬼畜系の(要するに子供への性的な暴力を描く)エロ漫画家の女性が住んでいる。さらには、(苦笑してしまったのだが)クライマックスと言える場面で山下達郎の「RIDE ON TIME」がかかったりもする(ジャニーズ問題を背景とした皮肉な使い方でよく曲の使用許可がおりたなあと思う)。しかしこちらの主題にかんしては、特に展開なり深掘りなどがなされているとはいえなくて(たとえば、エロ漫画のような「フィクション(表現)としてある暴力」をどう考えるのか、などについても、わざわざエロ漫画家を登場させているのに深掘りがあるわけでもない)、これならなくてもいいのでは ? 、と思ってしまった。

「子供」ということでより重要なのは、「未来に生まれる子どもの幽霊」という存在が登場することの方だろう。ゲーム配信女性にフラれて旅に出た映画監督志望男性がこの「未来の幽霊」を連れて帰ってくる。配信者の女性は、もうゲーム=リアル殺戮はやめようと決心している。しかし(学生時代からの友人でもある)政府のエージェントは、非常に重要な「次の作戦」だけはどうしても参加してほしいと乞う。ここで、彼女が作戦に参加すれば「未来に生まれる子どもの幽霊」が生まれる未来がやってくるが、参加しなければ彼の「生まれない」未来となる、と、運命の分岐点を「未来の幽霊」が自ら語る。「幽霊」自身は、こんなひどい世界なら生まれない方がいい、生まれたくない、と主張する(「生まれないようにしてくれてありがとう」)。しかしそれを知ったゲーム配信者の女性は「未来に生まれる子供の幽霊」を生まれさせるために、悲壮な覚悟で「最後の殺戮」を遂行することを選択する。この、悲壮な殺戮遂行場面が作品のクライマックスになる。彼女は、自分の子供だというわけでもない(彼女は子供は作らないと宣言している)「将来生まれる子供」のために、どこの誰とも知らない人々を大量に殺す。

ここではもはや、アイロニーとか毒とか内輪ノリとか言っていられないシリアスな状況になっている(シリアスな状況への移行の必然性がある)。彼女は、未来の子供のために、今・ここを生きる者の責任として、今・ここにある状況に何かしらの落とし前をつけなければならない。彼女にとってその落とし前とは、「人を殺す」という悪をなすことであり、暴力である攻撃を行為を遂行する(「手を汚してでも子供を生かす」)ことだ。

だがここで「今・ここにある状況に何かしらの落とし前をつける」ために行う行為が「人を殺すという暴力の遂行」であるという、このつながり(このロジック)を肯定できるのか、ということが問題になるだろう。そもそも、この「AならばB」は自明ではない。作戦に参加すれば子供は生まれるが、参加しなければ生まれない、というような二者択一問題的な状況を想定する(設定する)ことが本当に「現実的(あるいは「批評的」)」なのだろうか。これは、偽の問題に囚われているということではないか。あるいは、究極の選択のような二者択一があるとき、必要なのは「決断(と覚悟)」であるよりも、問題を組み直す(二者択一を解体する)努力なのではないか。いわゆる「決断主義」になっていないだろうか。このような疑問が生じ、その疑問は解決されない。

じゃあどうすれば良いのかと問われても、明確な答えはなく、故に、極めてシリアスな状況が提示されている、ということだが。

(あとやはり、小劇場的なクライマックス演出への抵抗感のようなものは、ぼくにはどうしてもあるなあ、と。)