2022/02/10

Netflixで『地球外少年少女』を3話まで観た。観ていて思ったのは、これは未来の話ではなくて「現代」の話なのだな、ということだ。『電脳コイル』が、「ノスタルジックなファンタジーを成立させるために未来的なガジェット(技術環境)が用いられる」という、過去と未来を接続させるような作品だったのに対して、ここでは、子どもたちにとっての「現代の環境」をぎゅっと濃縮して表現するために「宇宙ホテル」という環境が構築されているのだと思った。現代的な環境のなかで、子供たちの冒険をどのように成り立たせるのか、という話だ、と。

(『電脳コイル』で、仮想空間の基礎的な部分をつくったヤサコのお爺さんの幽霊が出てきてヤサコを導くのと同じように、宇宙ホテルの根幹部分をつくった---半分ボケている---お爺さんが出てきて子供たちを導くという展開に胸が熱くなった。)

宇宙ホテルは、夢の未来というよりもむしろ、現代日本の貧しさや駄目さが色濃く反映されている場所として設定されている。デザインやネーミングセンスが決定的にダサくて、至る所広告で埋め尽くされ、立派なお題目(建前)に内実が追いついていなくて細かいところに不具合が多々あって、景気が悪いので開発が中途半端な状態で放棄され、慢性的に現場に人手が足りず(子供に、大人によるケアが充分になされない)、宇宙服はオニクロ(ユニクロ)製の廉価版で宇宙環境に耐えられない。宇宙ホテルそのものが、安全性よりも経済性が優先されてつくられているようだ(布のような隔壁など)。陰謀論やオカルトが横行し、フォロワー数によって人の評価が決まり、月生まれと地球生まれの間に偏見が生じている。

とはいえ、そういう環境が批判的に、あるいはディストピア的に描かれるのではなく、それが子どもたちにとってデフォルトの環境であり、そのような環境を条件として、その環境のなかで冒険をしたり成長をしたりする様が、びっくりするほど健全な感覚で描かれている(みいななど、大人に媚びることなく子供らしく健全に身勝手だ)。ちょっと楽天的過ぎるようにもみえる子供たちの健全さに、リアルではないという批判もあり得るかもしれないが(『電脳コイル』の子供たちには闇があった)、この作品の目的は、そのような環境のなかにいる子どもたちを励ますというか、そのような環境下の子どもたちを喜ばせる、肯定するというところにあるのではないかと感じた。

(クオリティは圧倒的なのだが、意図的にそうしているのだとしても、ところどころ展開がちょっと「お約束」過ぎるのでは…、という感じはあった。この感じは『電脳コイル』にもあったのだが。)