●『電脳コイル』、15話から17話をDVDで。凄い面白い。お話が急速に核心に近づいた感じ。でもまだ先は長いので、まだまだ何かあるのだろうけど。
こういう言い方は安易だし下品でもあると思うのだけど、それでもやはり、押井守的なもの(『うる星やつら2』だけでなく『攻殻機動隊』系まで含めて)は、もう完全に過去のものになってしまったのかもしれない。「エヴァ」などに代表される90年代のアニメは、80年代のアニメを終わらせたわけではなく、いってみれば「問題の在処」を移動させて、違う場所に問題をみつけたということだと思うけど、『電脳コイル』は、80年代のアニメと同じ場所にいて(例えば「向こう側=電脳世界」の扱い方とか)、より大きくかつ精密な問題の構えによって、80年代的なアニメを完全にその内部へ吸収し梱包してしまい、内部でそれを解消させてしまうのではないかという可能性を感じる。つまり、このままいくと80年代的な(およびその延長上にある)アニメの問題構成自体が、無効になって(リアルではなくなって)しまうのではないかという予感。『うる星やつら』によって刻みつけられたトラウマは、『電脳コイル』を観ることで解消される、とか。それは勿論、新たに『電脳コイル』というトラウマを背負うということなのだが。友引町は大黒市へと書き換えられる。(ただ、だとしても古い空間=友引町からイリーガルは発生しつづけるだろうけど。)この作品はそのくらい「構え」の大きい作品なのではないか、と感じさせる3話だった。
●神話の構造分析みたいのは下らないと思うし、そのような構造分析の成果を使って組み立てられる物語も下らないけど、しかしそれでも、民俗学的、神話的なものの吸引力には何かしら脱構築不能なものがあるのは確かで、モダンな作品はそれに対して非常に禁欲的(かつ批判的)で、逆に、ポストモダンな作品はそれをまさに構造分析のレベルで扱える(つまり脱構築可能である)と低く見積もっていて、つまりどちらも「そこ」には踏み込めないのだけど、『電脳コイル』には、非常に精密で繊細な手つきで「そこ」に踏み込もうとする力が働いているように思う。しかしやはり「そこ」はヤバい場所で、ちょっと間違えるとすくに単調なオカルトになってしまうし、また、構造分析の成果の物語のような退屈なところに着地、収束してしまったりする危険もあって、『電脳コイル』もキワキワと言えば常にキワキワなわけで、その意味でも今後の展開は見逃せない。(具体的に言えば、病院とか、ヤサコのおじいさんとか、そういうところにお話-秘密を収束させないで欲しいなあ、と思う。)
●こまかい部分の作り込みもよくて、例えば17話で男の子たちが古い空間のなかでサッチーに追われて逃げるシーンでの細かい空間の設定(駐車場みたいな場所の脇に段差があったりとか)がすごいリアルで、ここまで空間をきっちりつくってるアニメって他にないよなあ、と思ったりした。基本的に昭和ノスタルジー的な風景なのだけど、風景ではなく空間が問題になっているから、安易なノスタルジーにはならないのだと思う。それはイメージによってではなくて動きによって生まれる。その動きとは、いわゆるアニメーション的な動きばかりとは限らない。
●この辺りになってテレビが登場してきて、ワイドショーでコメンテーターがキラバグについて語っていたりするのは結構微妙で、今までは割と大黒市という架空の場所のなかでの話だったのが、いきなり扱われる空間が全国にまで広がって、そうするとやはり「現実」との関係がデリケートになってくる。ヤサコの金沢時代の友達が北海道へ引っ越すなんていう話もあって、虚構の場所と現実に存在する場所との関係をどう調整してゆくのか難しくなっていくように思われる。
●『電脳コイル』は予想以上に『回路』(黒沢清)に近いところがあるなあとも思った。