08/02/28

●『ゾディアック』(デヴィッド・フィンチャー)をDVDで。面白かった。デヴィッド・フィンチャーの映画をはじめて面白いと思った。出だしのところでは、もしかして凄い傑作なんじゃないかっていう予感が漂っていたのだけど、まあ結局は、そこまで凄くはなかったのだけど。
こまかい部分の丁寧なつくりこみが凄くて(特に音が凄い)、あらゆることのクオリティが高いのだと思うけど、もう一歩、突っ込んだところがあってもいいんじゃないか、と思った。いや、基本的には「突き抜けないこと」のもどかしい持続こそがこの映画なのだけど、それでももうちょっとなんかこう、「おおっ!」っていうのがあってもいいんじゃないだろうか。
犯人らしいおっちゃんと警察がはじめて面会するシーンに、もうちょっと緊張感があっていいんじゃないかとか、最後に出てくる殺されかけた男のたたずまいに、もう一つ何かがあってもいいんじゃないか、とか。あと、主役の漫画家と女の子がはじめてデートするシーンは面白いし、その後いつの間にか『ダーティーハリー』を一緒に観る仲になってたりするのもいいのだけど、結婚した後、二人の関係が離れてゆく描写とかは、いまひとつのように思えた(映画全体としても、この辺りでちょっとだれる感じ)。主人公が家に帰って来て「今日はどうだった」とか言うと、奥さんが「長かったわ」と答えるところなど、セリフとしては気が利いてるけど、演技というのか、画面の空気としては、二人の距離の感じがあまり出てないように思った。展開としては、絶対奥さんが実家に一旦帰って、しかしまた戻って来るのだということは見えているのだから、こういうところは描写の冴えだけが命なのだと思う。(寝ているところを電話で起こされる警官夫婦の描写はいい感じ。)終盤、犯人かもしれない映写技師の家へ上がり込んでしまった時のサスペンスも、ちょっと安っぽい気がする。(終盤、「もどかしい持続」の緊張がちょっと途切れがちになるのだが、ここはそれを安易な盛り上げでなんとかしようとしている感じ。)
おそらく、犯罪シーンの強烈さによってはりつめていた前半の緊張の持続と、人間ドラマ的な空回りの描写が中心となる終盤の緊張の持続とが、強さとしていまひとつ釣り合っていないということなのだろう。それは、ゾディアックが沈黙してからの、主人公がドツボにはまってゆく描写の展開がいまひとつということなのかもしれない。こっちが前半以上に充実していたらすごい傑作だったのかも。でもここで充実とは、主人公の狂気じみた突っ走りを強調することではなく、あくまでもどかしさを持続させることなのだと思うけど。とはいえ、全体としてはかなり面白かったし、フィンチャーみたいな人がこういうケレン抜きに堂々と正攻法みたいな映画をつくるようになるのだがら、ハリウッドってやっぱすげえな、と思った。アメリカの映画文化の厚みというのか。(時期的にどうしても、ロス疑惑の捜査をつづけているロス市警の刑事の執着のことを思ったりもした。)
あと、映画では10時間後っていうのも、7年後っていうのも、字幕が出るだけで、同じテンポでポンポンと時間が進むのが、考えてみれば凄い変で、何でそんなに変なことを普通に納得出来ちゃってるのだろうかと、観終わった後で思い返すと不思議で、それも面白い。(ビルがどんどん出来てゆくことで時間の経過を示すとか、ああいうのはいらないと思う。まあ、ここでちょっと小休止、みたいなことなのだろうけど。)
あと、薄明るい夜の感じが気持ち悪くてよかった。
●難航していた小林正人論の第一稿がなんとか最後まで辿り着いた(約40枚)。これは本に載る予定なのだけど、何年か前(何年なのかもう忘れた)の「BT」の批評賞に応募したものが元になっていて、それには落ちたわけだけど、選評で椹木野衣氏に、まあ読ませるけど、結論が弱い、というようなことを言われて、その、結論が弱いというのは書いた自分でもすごくよく分かっていて、でもその結論の部分はずっと書けなかった。
書きながら今、思い出したのだけど、元々はもっと古くて、批評空間webで、岡崎乾二郎の次は小林正人について書きたいといって編集者からボツにされたのが最初のやつで、あれは確か2001年だから、7年もこれを引きずっていることになる。7年の執着の末にしては、やはりまだ結論は弱い気もするが、今の時点ではここまでしか書けません。(仮のタイトルは、最初は『絵画における二つの層の分離について/小林正人とバーネット・ニューマン』だったのだけど、学術論文みたいで堅苦し過ぎるので『フレームのこだまと、宿命の光/小林正人「絵画の子」とバーネット・ニューマン「英雄的にして崇高な人」』くらいの感じにしとく。)
しかし曰く付きのものなので、これもまたポツになったりするかも。とりあえず一晩寝かせて、もう一度読み返してみることにする。