●小林耕平のフレーミングのような出来事を、絵画として成立させるにはどうしたらよいのだろうか。
昨日見た「2-8-2」は、きわめて緩く、すかすかであり、しかしそのすかすかの時間、緩いフレーミングによってはじめて捉えられる出来事や関係が、奇跡のようにたちあがる(この作品はおそらく、去年の山本現代での展覧会の時にも上映されていた http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20091002)。緩いことでしか実現出来ない強さ、すかすかであることによってしか実現できない密度がある。パフォーマーがビニールテープを手から落とすと、ビニールテープは落下する。パフォーマーのそのような意図的な場所への介入に対し、そこを吹く風が、ビニールテープをふわっと膨らませる。パフォーマーの意図的な行為と場所の有り様(風)がふいに交錯し関係づけられる。たったそれだけのことが、この作品では驚くべきこととして生起する。あるいは、空気で膨ませたビニール袋と木の板を持ったパフォーマーがカメラの前を横切る。カメラはパフォーマーを追うわけではなくズームしながらふらふらと移動する。そのフレームが再びパフォーマーを捉えると、パフォーマーは地面に置いた木の板をつま先で蹴ってひっくり返し、同時に自らもジャンプして、ひっくり返った瞬間の板の上に着地する、という行為を行う。その、ちょっと派手目のアクションとバシッと響く大きな音は、緩く持続する時間にある種のショックを与えるのだが、そのショックによる緊張をおちょくるかのように、さっき彼が持っていたはずのビニール袋が(おそらくカメラが捉えていないところで手放され、放置されていたのだろう)、風に押し流され、間抜けな緩慢さで彼の後ろをずずずず、と横切ってゆく。これら、半ば意図的で半ば偶然であろう複数の出来事の、なんとも脱力されたモンタージュ
意図と偶然、緩さと緊密さ、だらっとした退屈さと心躍る面白さ、予想外のことは何も起こらないいことと驚くべき予想外の出来事の連鎖、が、どちらに強く傾くことなく共存している。無関係に見える、お互いに遠く離れた複数の物や出来事が、はっきりとした因果関係によってではなく、遠く離れたままで、かすかな響きによって結びつけられる。
小林耕平の作品には三つの層があるように思われる。一つは、撮影が行われた、その場所で起こっていること、その場所にある物、それら物たちの配置。二つめは、その場所でのパフォーマーの動き、パフォーマーの場所への介入(物の配置の移動)、パフォーマーの動きや介入によってその場所に起こる出来事(パフォーマーと場所との関係)。そして三つめは、それを捉えるビデオカメラのフレームの移動、時間の切断と接合、フレーム内に捉えられるものと、フレーム外にあって捉えられないものとの選別。そのようなフレーミングそのものによって起こる出来事、関係づけ。
それら三つの層は、実写カメラによって撮られた映像であるらなばすべてに当てはまるとも言えるが、しかしここでは、そのどれもが同等の強さで存在し、それぞれにバラバラの原理で動いている。場所を描写するのでもなく、パフォーマンスを記録するのでもなく、撮影者の演出を見せるのでもない。だからそれは、明確に何かを主張したり、何かを押し出しているわけではない。そこに四つ目の層として、それを観ている観客の視線が介入する。「これを見ろ」と明確に示されているわけではないその緩く流れる映像から、遠く離れたものの関係を読み取り(読み取り損ない)、驚くべき出来事の出来を感知し(感知し損ない)、要約不能なもやもやした経験を構成するのは、四つめの層としての観客の視線であろう(緩く漂うフレームは観客の視線を代替したり拘束したりするものではない)。しかし勿論、観客の視線は最後にやってくる特権的な終結−解決ではない。四つめの層は、他の三つの層と同等のものでしかなく、観客が好き勝手にそこに意味を見出すことは作品そのものが禁じている。だからこそ、もやもやした経験が、もやもやしたままで持ち帰られることになろう。