●二週間ぶりくらいに(近所以外の)外に出た。アサヒアートスクエアで「気象と終身」(http://wwfes2010.exblog.jp/13475005)。銀座線浅草駅の四番出口から出たらスカイツリーがあった。はじめて見た(はじめてではないかもしれないが、はじめて「それ」と認識した)。そんなに大きくないと思った。展覧会(という言い方でいいのか?)はとても面白かった。
会場に入ってすぐは、あまりにも雑然とし、とっ散らかった印象で(実際、ゴミが散らかっているし)、この場所で自分がどのようにしていたらよいのか分からない感じだった。どれが作品で、どれが撮影のための小道具なのか(小林耕平が会場で作品の撮影をしている)よく分からないし、人がざわざわしていて、誰が作家で、誰が出演者で、誰がパフォーマーで、誰がスタッフで、誰が観客なのかもよく分からない。普段は劇場として使われているだだっ広い場所に、物が散乱し、人が思い思いにうろついている。ビデオやカメラで撮影している人が多数いるのだが、それが、この場を記録しているスタッフなのか、プレス関係者なのか、それとも、この場は撮影OKということになっているのか、それも分からない。空間として雑然としているような作品というのなら、現代美術を見慣れていれば別に驚くこともないのだが、通常、そういう作品でも人の流れは「作品を観ている」的な動きで流れているのだが、ここでは人の動きがバラバラで、文化祭の準備中に部外者が紛れ込んでしまったみたいな感じ。
落ち着いて作品を観るというような集中した状態にはなれず、ざわざわと落ち着かない感じのまま、しばらく会場をうろうろしているうちに、それでも少しずつ次第に、そこに物が置かれている有り様や、人が動いている流れのようなものが見えてくるようになる。というか、その場でどう過ごせばよいのかという感じが、だんだんと掴めてくる。とにかくだらだらとしていれば、そのうちいろいろ見えてくるものがあるのだ、と。ボーダーのシャツを着た人が、壁に頭をつけてじっと動かないのだが、きっとこれはパフォーマンスなのだろう(会場がざわざわしているのであまり目立たない)、とか。
感じが掴めてきたところで、会場の一番奥の、普段は倉庫として使われているところで上映されている小林耕平の「2-8-2」という作品を観る。これが一番普通に「作品を観る」という感じだ。しかし、その間にも、外から、積み上げた物が崩れるような大きな音とか、掃除機かドライヤーのような大きな音が聞こえてきたりして、外で何が起こっているのかが気になる。「2-8-2」を最後まで観て(これはすごく面白くて興奮した)外に出てみると、冨井大裕の作品が崩されていて、作家本人が別の形に組み立て直していた。ボーターのシャツの人は、さっきとは違う位置で、同じように壁に頭をつっつけていた。脚立に鎖で双眼鏡がくくりつけてあって「双眼鏡で、作品や来場者をよく観察して下さい」と書いてある作品があって、その双眼鏡で、ちょうど会場の反対側で撮影している小林耕平一行の撮影を見てみると、自分の目が小林耕平の作品のフレームになったかのように感じられる(作品が展示されているなかに作品をつくっている人がいて、その様を、ぼくがその作家の作品の目となって見ている、というとても変な感じ)。
作品は、おそらく普段は舞台を照らす照明が設置されていると思われる、一つ上の階にもあるらしいので、エレベーターで昇る。ドアが開いたとたんに、さっきしていた掃除機のようなドライヤーのような轟音が聞こえる。たぶん、枯れ葉の掃除とかに使うやつだと思うけど、細い筒から強力な風を吹き出す機械を使って、会場にばらまかれているゴミ(作品の一部)を、あっちからこっちへ、こっちからあっちへと移動させるというパフォーマンスをしている人がいる。この人は、ぼくが作品を観ている時にも、足下にゴミと風をまとわらせて邪魔したりする。上の階の壁はガラス張りで、下の階の展示や人が見下ろせるのだが、そこではじめて、下の階の天井に無数の風船が浮かんでいることを発見する。その風船の一つが、ヘリウムガスがなくなったのか、すーっと下に降下していった。ちゃらちゃらという音がして、見たら、さっきの人が風で百円玉を吹き飛ばしていた。
もう一度下に下りる。冨井大裕は、さっき組み立て直していたスポンジの作品を組み替え終わり、今度はエアキャップの作品を組み直していた。ボーダーのシャツの人は、さらにまた位置を移動していたが、ぼくが見ている間は動かない。しばらく、小林耕平が撮影しているところを見ていた。撮影を見ている観客とかもフレームに当然入っているのだが、それも全然オーケーのようだった。その後、さっきの双眼鏡でまた撮影を見て、今度は上の階から下を見下ろしている人を見て、天井の風船も見る。双眼鏡を覗いている時に、近くから話し声が聞こえた(遠くは見えても、近くの声の主は見えない)。「さっきエレベーターのなかでやってたパフォーマンスは見た?、エレベーターのなかでダンサーがダンスしていて、だから乗り合わせた人はそれをよけるために、自分も自動的にダンスみたいに動かなくちゃならなくなるってやつ」。笹本昇という人のビデオ作品を観ていたら、作家本人と思われる人から声をかけられて、自作の解説をしてくれた。笹本昇は、他の人みたいにパフォーマンス的なことをするのではなく、普通に自作解説をするというスタンスのようだった。
笹本さんの話を聞いているうちに、小林耕平一行は撮影を中断し、控え室のような場所に入ってゆく。撮影隊がいなくなると、より一層、撮影のために集められ、そこに放置された小道具たちと、他の作家の作品との区別がつかなくなる。モニターで、今まで撮影した分が流れていたが、カメラで撮ったものがそのまま、何の編集も加工もされで流されていた。それをぼんやりと見ていると、さっき上の階にいた爆風男が、下の階に下りてきて、ゴミを吹き散らしはじめた。
結局、二時間くらい会場にいた。「作品」単体としてみれば、ぼくには「2-8-2」が圧倒的に面白くて、他の作品はそれに迫る強さは持っていないように感じられたのだが、そういうこととは別に、その場の有り様がとても面白かった。その場所で起きていることの全体を把握している人はおそらく誰もいなくて、一人一人の作家やパフォーマーがそれぞれ勝手に、思い思いのリズムで思い思いのことをやっている。作品もまた、展示されるというより、たんにそこに置かれているようにしてある(しかしそこには、微かな相互関連性のようなものが仕掛けられてはいるのだが)。そして何より上品なのは、それら(人たち、作品たち)は、観客に対して強く何かを訴えてくる(ある感覚を強制してくる)のではなく、それぞれがバラバラで勝手に有って、バラバラで勝手に動いていて、観客がそれらの間を歩きまわり、関心を向けたり向けなかったり、あるいは、たまたまそれと出会ったり出会えなかったりすることを通じて、それぞれの物や出来事の間の微かな関係が、それぞれ異なる一人一人の観客によって気づかれ(築かれ)て、それぞれに異なる空間の経験が開かれてゆくという感じだ。
観客の一人一人が、小林耕平の作品のフレームのようなものになって、会場をふらふらと移動し、バラバラに置かれたもののなかにある、微かな(星座のような)関係性を嗅ぎ取り、形作って行く。とにかく、とても楽しかった。