●例えば、研究というのは、研究者たちのコミュニティによる承認を必要とする。コミュニティにはそこに刻まれた歴史が存在し、その歴史を通じてコミュニティに与えられた外部(社会)からの承認がり、それによって権威をもつ。コミュニティは権威=制度としてあり、そこで承認されるために必要な、段取りがあり、条件があり、作法があり、政治がある。それらは、その研究が真であろうとするときの質や精度を保つために必須のものとされるだろう。
一方、そこからやや外れたところに、そこから自律したものとしての批評という行いがありうる。批評には、研究者たちのコミュニティがもつ権威=制度との緊張をもった距離(意識的な距離)があり、作法的、形式的に、ある程度の自由度をもつ。批評の信用を支えるのは既存のコミュニティによって承認された条件や形式ではなく、不特定の公衆へのプレゼンテーションとそこから得られる支持であると言えよう。だが、批評と呼ばれるものは一つのジャンルとしてある社会的関係性を背景に持つことで存在するもので、固有の歴史があり、固有名の連なりがあり、過去から継承される内容と形式があり、その歴史のなかで、あるいは、歴史を背負うこと(従うにしろ、抗するにしろ)によって、書かれる。
だけど、それらとはまた別の、「作品」についてのディスクールというのがあり得るのではないか。それは、既存のものとは「別の」という形でしか捉えられないものであり、その都度、ある人、ある場面、ある作品との関係のなで、新たに発見され、創造されるしかない、作品に沿って、作品について、作品とともに思考するために必要な、ある言葉の形式であり、そのような思考を紡ぎ出すための装置(仕掛け・技法)であるようなものだ。だからそれは一般的な形式をもたず、決まった作法や段取りもなくて、ある時、ある場所では成立するかもしれないが、別の時、別の場所では成立しないかもしれない、あやふやなものだ。
「別の」という形で消極的に規定するしかなく、形式や成立の条件も定まらず、名づけることが困難であるなら、そのようなものが社会的な「場」を得ることなど出来ない、ということかもしれない。「別のディスクール」は、確かに持続的な場をつくることは困難かもしれないが、そのディスクールが成り立っているその時、その場所において、小さな、暫定的な場を、もしかしたら一瞬で解散してしまうかもしれない小さなコミュニティを成立させることは可能だとは言えるのではないか。ある日、ある場所で、ほんのひと時だけ成立したという、とても微弱な関係、はかない場であるからこそあり得る、思考の自由と柔軟性というものがあると思う。
(「別のディスクール」だけが重要だと言っているのではないし、他に対して優位だと言っているのでもない。ただ、「別のティスクール」でなければ可能ではない思考があり、自由があると言いたい。)
ぼくにとって興味があるのは、そのような「別のディスクール」を立ち上げるための技法だ。例えば、地位も役割も関係性も固定してしまっているような「会社の会議」において、それぞれが自己規定によって自身の役割に縛られてしまっている頭の状態から(その会議の間だけでも)抜け出して、自由で柔軟な、いわば無礼講の場を出現させるには、どのような技法があり得るのか、というようなことと繋がる話だと思う。会議が終われば、また、それぞれの立場や役職に戻ってゆくのだとしても(それが必然だとしても)、会議の間だけは関係性が流動化し、無効化するような(そしてそれは勿論、場合によっては会議後の関係の書き換えにもつながり得るはず)、自由で柔軟な「空気」を生み出すことが、その会議の創造性と直接結びつくのではないか(そのためには、ディベートではダメなのだと思う)。そこで発揮された創造性が実現されるためには、「既にある組織」としての会社や、そこでの固定した関係性は必要だということを否定しているわけではない。
●まあ、言うのは簡単でも、それを実行するのは難しい。ただ、それを実現してしまっている稀有な例が、小林耕平と山方育弘によるデモンストレーションなのではないかと思う。
(展覧会を観に行けてないのにこんなことを書くのも気が引けるのだけど、下の映像はすごく面白い。)
https://www.youtube.com/watch?v=7dLXxitpXPg&feature=youtu.be
https://www.youtube.com/watch?v=krrJ4PPOO2E
これは、アーティストのパフォーマンスではないし、作品のプレゼンテーションでもなく、作者による自作解説でもない。まさに、作品に沿って、作品について、作品とともに思考する、そのための言葉であり、そこへ向かう対話であり、そして、それを触発するその場の空気の創造であり、それがそこにいる人たちへも働きかけているように思う。
まず、小林耕平の思考が形になった作品があり、それについての作者の言葉があるのだが、それは最初にある「思考を刺激し働きかけるきっかけ」のようなものであり、そこから山形育弘とのやり取りが生まれ、そして、そこにある作品と作品をめぐる二人のやり取りによって、ある種の「自由な空気」が醸し出され、それに促されるようにしてそれを見聞きしている人たちの思考が惹起されてくる。だからこそ、見聞きしている人からの働きかけも生まれるのではないか。
●この、小林・山方メソッドを、もっと、みんなパクるといいのではないかと思う。いろんなキャラの人が、いろんな組み合わせでやってみると、面白いのではないか。小林さんと山形さんという絶妙な組み合わせのようには、なかなかうまくはいかないだろうとは思うけど。少なくとも、学芸員やアーティストによる作品解説よりはずっと意味のあるものになると思うのだけど。