●絵画にしか出来ないことをすることと、絵画というジャンルを前提として何かをすることとは全くことなる。過去に絵画を描いてきた先人たちの仕事を尊重することと、絵画史という言語ゲームに乗っかって作品をつくることとも、全くことなっている。
●何かを掴もうとして、多方向に向けて差し出された探る手の動きは、ある形象や形式に触れることによって、(事後的に)その「表現」を獲得し、その「意味」を知る。しかし本来、無方向、多方向にうごめく多数の力の集積であった「探る手の動き」は、その「表現」と引き換えに、形式そのものから切り離され、抽象化されざるを得ない。表現されたもの(その形式、形象)は、その表現を求めてうごめいていた「動き」や「力」とは切り離されて、それ自体で存在する。表現されたものは、それ自体が自同律(同一性)を得るので、それ自体としてあつかい、別の何かと組み合わせることが出来るようにすらなる。つまり、一度表現されたものは、その表現を要請したもともとの「動き」や「力」とはまったく関係なく、一つのパーツのように取り扱うことが可能だし、サンプリングすることも可能になる。
●例えば、キュービズムセザンヌの仕事を参照しているし、セザンヌの仕事がなければあり得なかった。しかし、セザンヌに作品をつくらせている「動き」や「力」と、キュービズムの画家たちに作品をつくらせている「動き」や「力」は、まったく別のものだと思われる。形式的には、キュービズムセザンヌの発展形だが、「作品」としては別の系統にあり、全く関係がないとさえ言える。(この「違い」を観ることが出来なければ、作品を観ることに何の意味があるだろう。)
●何かを完成させることは、それを完成させた人をこそ、もっとも大きな危機に直面させる。もともと無数の力の分析し難い絡み合いであり、それ自体が動くものであったはずのものを、上位の、抽象的な形(像)として固定させ、名付けてしまうからだ。それがその人を縛るのだ。その完成させたものが立派なものであればあるほど、その危機は大きいだろう。(抽象表現主義の画家たちをみると、そのことをひしひしと感じる。)
●しかし、その完成されたものは、無数の力のうごめきを確かに「表現」するものでもあるはずだ。その形式化されたもの(作品)に触れることによって、それによって表現された諸力のうごめきを自らの身体において「呼び覚まし」、そこに「触れる」ことを可能にする。これを信じることが、作品を信じることだろうと思う。