●何かをやろうとする時、自分がそれをすることによって「何をしたいのか」ということが、自分ではよく分っていないことはけっこう重要なことだと思う。よく分っていないという不安のなかで物事に触れる時にしか、リアルに何かに触れることは出来ないのじゃないかと思う。自分の目標を明確に持っていること、ブレがないこと、など、ちっとも良いことではない。ただ、だからといって、まったく何の手がかりもなければ、探りをいれることすら出来はしないのだけど。
基礎練習みたいなものがとても辛くて詰まらないのは、それをやることによって「何をしている」のか、「どこへ向かうのか」の実感的な予感や手がかりもないままに、多くの場合外的な抑圧によって「させられる」しかないからだろう。しかしそれは逆に、自らの手で手がかりをつかまなくても、わけがわからないまま、他者(先人)によってある地点にまで知らず知らずのうちに導かれるということでもある。このことの恩恵は事後的にしか分らない。いや、場合によっては事後的にすら意識されることなく、当然の前提のように享受される。だが、それを享受出来る環境にない者にとって、基礎練習は後から、自覚的な努力によってなされるしかない。
しかし、ハードな上に基本的に面白くない基礎的練習を、自身の意思によって行うことはきわめてむつかしい。意思的、意識的な行為によって「出来ること」はきわめて貧しい。もともと貧しい環境にいる者の「貧しさ」とは、様々なことを自覚的にしなければならないというところにあるのではないか。そして往々にして、自覚は遅れてしかやってこない。自覚した時には既に遅かったりする。
●今日の散歩(3月上旬)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo070301.html