溝口健二と黒沢清

溝口健二の映画がまとめてDVDで出ていたので、『祇園の姉妹』と『お遊さま』を借りてきて観た。
祇園の姉妹』は、何度観ても隅々までの全てがいちいち新鮮で素晴らしいとしか言えないような傑作で、映画では七十年も前からまったく何も新しいことなど起こってなくて、何も進歩などしていないのだ、と思ってしまうほどだ。特に山田五十鈴が凄い。凄いと言う以外に何と言ったら良いのか分らないのだけど、とにかくこの人は他とは「全然違う」何かなのだ。この映画に出たころはまだ二十歳そこそこだったというのだから驚く。(山田五十鈴の口から「ぶっちゃけ」という言葉が出たのには驚いた。「ぶっちゃけ」って京都の言葉だったのか。)
『お遊さま』ははじめて観たのだけど、これはいまひとつだと思った。勿論、溝口の映画なのだから、カメラによる空間の造形は素晴らしいのだけど、谷崎の原作(『葦苅』)と噛み合っていない感じだ。谷崎の原作は、いってみれば変態的なエロジジイの妄想の話で、谷崎的倒錯は抑圧がなければ作動しないわけで、いわば抑圧(あるいは、直接的には触れられないこと)は谷崎にとって大好物と言うべきものだろう。溝口はその話を女性の側へと視点を移して、抑圧による女性の悲劇として描き直そうとする。しかしもともと男性の妄想の話なのだから、その女性像は妄想する男性のエロを作動させるために都合良く造形されているわけで、それを、妄想する男性のフィルターを通さずに主体的な女性像として立てようとしても、それはどこか魅力を欠く平板なものにならざるを得ない。『祇園の姉妹』の姉妹の生き生きとした像にくらべ、『お遊さま』の姉妹はいかにも平板で型にはまっている。溝口にとって興味があるのは、抑圧を生じさせるような、具体的な人間関係が織りなす力関係のダイナミズムなのだろうが、『お遊さま』にはそれが欠けていて、抽象的な「抑圧された女性」というような紋切り型しか感じられない。(それを通俗的なメロドラマに仕立てる「甘さ」を溝口は持っていないだろう。)谷崎にとっては、そこで作動するエロのなまなましさこそが重要なのだから、直接性を疎外する抑圧がありさえすればよくて、その抑圧がどのような権力関係によって生じるのかという具体的な組成はあまり問題にされない。(というか、谷崎にとってその組成は物語のなかにあるのではになくて、あくまで「書くこと」のなかにしかない。)だからこの映画は、『葦苅』を原作に選んだことが間違っているのだろう。
『叫』を観た勢いで久々に観たくなった『勝手にしやがれ!英雄計画』(黒沢清)をビデオで観た。「勝手にしやがれ!」シリーズの六作目であるこの作品で(正確にはこの作品の「途中」で唐突に)、『神田川淫乱戦争』で職業的な映画監督としてデビューした黒沢清は不可逆的な変貌をとげる。(いや、初期の8ミリ時代から考えれば、原点に回帰したとも言えるのだが。)ぼくはこの映画を、当時近所にあった一本二百円というチープなレンタルビデオ店で借りてはじめて観た時、その変貌に激しく動揺したのを今でも憶えている。何か、隠されていた(抑えられていた)禍々しいものが殻を破っていきなり露呈してしまったかのようにみえた。作品としては傑作と言えるようなものではないし、このシリーズのなかでも完成度の高いものではない。脚本のどうしようもない幼稚さは、誤摩化しようもないだろう。にも関わらず、何かヤバいものに触れてしまったという禍々しさと、そして、深い怒りと絶望が、この映画にははっきりと刻まれていて、それは最近の作品よりもずっと深いもののようにも思われる。(岡田利規の小説集のタイトルでもある「わたしたちに許された特別な時間の終わり」が刻まれている。しかし、黒沢清においては、それが日常への回帰=着地にはならずに、しばしば、個人の死か、世界の終わりに直結してしまうのだが。)
寺島進黒谷友香を、ぼくはこの作品ではじめて観たのだった。
『叫』の何が怖いと言って、地震のあの唐突な揺れが一番怖い。あれは脊髄反射の次元で怖い。ジェットコースターとかが怖いのと同じ次元で怖い。まるで本当に地震にあったみたいに怖い。観てる時はビクッと反応するだけなのだが、その後、眠ろうとしていて、入眠しかけた時、あの唐突な震動がふいに思い出されて、ビクッとなって目が覚めてしまったことが何度かあった。軽いトラウマみたいだ。そういう次元で観客にショックを与えるのはズルいと言えばズルいし、あまり高級ではないとも言えるのだけど、この映画での葉月里緒菜の幽霊は、まさにこの地震そのもののような存在なので、この、身体に直接刻まれるようなショックが、この映画の説得力を裏で支えているのかもしれない。『叫』はまさに、地震の映画だと言えるのかもしれない。