『近松物語』(溝口健二)をDVDで

●『近松物語』(溝口健二)をDVDで。この映画が凄いのは当然なんだけど、やはり凄い。何が凄いといって、長谷川一夫香川京子が、まわりのことなどどうでもよくなって、ただひたすら互いを求め合うというか、まさぐり合うことしか頭になくなってしまう後半が特に凄い。それは、情念とか情欲とかいう言葉では足りなくて、ほとんど獣欲とでも言うしかないような強烈なもので、この映画の後半はずっと、見てはいけないものを見せつけられているような感じがつづくのだった。勿論、溝口健二なのだから、直接的にえげつない描写やエロい場面などがあるわけではなく、あくまでも格調高く演出されているのだけど、それを突き破って出て来るものが凄いのだ。(「このショットはどうこう」みたいな見方を、後半になるとぼくはまったく出来なくなってしまう。)
溝口の映画の人物は、基本的に世間のしがらみというか権力関係に強く縛られていて、そこに生じる悲劇のようなものが主題化される。多くの場合、この権力関係において、相対的に男性よりも女性の方が弱い立場にあるのだが、それはあくまで相対的なもので、男性にしても、権力関係のしがらみに捉えられていることにかわりはない。(例えば、この映画で最も強い権力をもつ進藤栄太郎にしても、彼は自分の好き勝手に動いているわけではなく、しがらみの構造の一項を演じているに過ぎない。)このような権力関係の複雑な有り様や、その推移を、視覚的、空間的なものとして繊細に可視化するのが溝口の演出だと言えるかもしれない。そして三十年代の傑作『祇園の姉妹』や『浪速悲歌』の山田五十鈴が凄いのは、すべての人物がそれに縛られている複雑なしがらみの有り様を、一人突き抜けてゆくような強さがあるからだと思う。それはおそらく、女優としての山田五十鈴のもつ力なのだと思われる。(物語として突き抜けるのではなくて、その存在として突き抜けている。)しかし、『近松物語』の長谷川一夫香川京子には、そのような意味での「突き抜ける」ような俳優としての力は感じられない。にも関わらず、この映画の後半の「やばい」感じ、この二人はもう完全に「狂気の側」にいる人たちだという感じは圧倒的で、それは、映画全体としての総合的な力によるのだとみるしかないのだろうと思われる。わかりやすく狂気をあらわすような描写があるわけでもなく、映画の視点がこの二人にだけ集中するわけでもなく、映画は後半も前半とかわらず、様々な人物の、それぞれのしがらみをバランスよく描き出すのだが、それでもなお、この二人の狂気にドライブがかかってゆく様は圧倒的に際立っているようにみえる。(長谷川一夫を追って山道を走る香川京子が倒れ、その怪我をした足を長谷川一夫が「舐める」描写などは、官能的であるというよりも、「嫌なものを見せられた」という感じがするほどに強い何かがある。)
二人は、世間のしがらみの重力から急速に離れて行き、どんどん「人間ではないもの」へと近付き、ただ互いにまさぐり合うことを求めるだけの存在になってゆく。彼等はもう既に人間ではないのだから(琵琶湖に浮かぶ船の上で、彼等は「向こう側の人」へと変身したのだから)、これはもう悲劇ではないだろう。互いに、密かに惹かれ合っていた使用人とその主人の妻とが、しがらみを解かれることで、抑圧されていた欲望が解放された、というのではない。権力関係から溢れ落ちてしまった二人が、限りなく死に近付いたしがらみの圏外で、まったくの別物のモンスターに変身してしまったのだ。この映画は、しがらみの圏内での人間的な悲劇ではなくて、しがらみの圏外へと突き抜けた、怪物への変身を(人を怪物へと変身させてしまう力を)肯定しているような強烈な映画なのだと思う。
●あと、香川京子のダメな兄を演じている田中春男が素晴らしい。この男は、しがらみをバカにしながらも、しがらみの圏外にまで突き抜ける力をもたない、卑小なニヒリストに過ぎないのだけど、こういう人物がいるといないとでは、映画の厚みがまったく違うと思う。