テレビをつけたら

●テレビをつけたら、野際陽子国生さゆり比叡山を訪ねるという番組をやっていて、それをぼんやり眺めながら、荒川修作のことを思い出した。荒川修作がやりたいのは、要するに比叡山のようなものをつくるということなのだろう。だから、養老宿命反転地のようなものでは、あまりにスケールが小さ過ぎるのだろう。一人のアーティストが個人として比叡山のようなものをつくるなどということは、あまりに誇大妄想的な大き過ぎる野心のようにも思えるけど、それを考えると、個人ではないにしろ、比叡山も誰かによってつくられたもののはずだし、そしてそれが1200年も残っている(たんに建築物として残っているというのではなく、システムとして機能しつづけている)ということのとてつもなさに驚く。
宗教とは基本的に、自分の生きている時間よりもずっと大きなタイムスパンで機能するものに自らを預けることで、自身の生の重さや死の恐怖を軽減させるという効能をもつものだと思われる。それは神や仏という抽象的な概念だけの力でなく、あるシステムが1200年もつづいているというその事実こそが、そこで絶対的な(安定した)説得力を保証する。(例えばイスラムでは、法が徹底して守られつづけてきたという事実が、神の存在の相関物となる。)今、自分が行っている荒行、それによって生じた身体的、精神的な状態は、過去に同じ荒行を行った無数の者たちの身体、精神に生じたものと同じものなのだ(あるいは、今、この私に訪れているそのような状態は、過去の人々に訪れたものの正確な「反復」なのだ)、という実感こそが、そこで大きな意味をもつ。おそらくそこにこそ、歴史や権威というもののもつ意味がある。(私の身体が他から切り離されてあること、つまり、私の身体の「痛み」は、私が、私の身体において受け止めるしかなく、私にしか感じられない、ということの孤独や閉塞は、おそらくこのような意味での大きなシステムへの帰依によってしか解消されない。)
荒川修作においては、ただ作品としての建築物をつくるのが問題なのではなく、そこに住み、そこで生きる人の生活の有り様までもデザインすることで、その人の身体の内部にある特定の「感覚」を生じさせることが問題なのだと思われる。(それはまさに、出家した人が日々繰り返される修行を通じて何かを得る、というのと同じことだと思われる。)そこで、ある感覚が非人称的に反復されつづける限りにおいて、その感覚として生きる人は「死なない」。(だが、それが荒川修作によって「専制君主」的にデザインされたものである以上、「死なない」のは荒川修作一人なのではないか、という疑問もあり得る。)ただ、荒川修作においては、そのようなシステムがデザインされる時、歴史や権威のもつ「厚み」は利用されない。(例えば、「奈義の竜安寺」で引用される「竜安寺」など、薄っぺらな記号でしかないだろう。)むしろ、そのような「厚み」は積極的に否定される。荒川修作にとって、「死なない」ためには、「厚み」を排除する必要がある。(これはおそらく、『意味の論理学』のドゥルーズの言う、「表層」において生きる、というのと結構近い。)