●ちょっと昨日のつづき。
ラカン精神分析の治療論』(赤坂和哉)には、分析家が「内容のある解釈」を分析主体に与えてしまうと、分析主体はその「内容(分析家の欲望)」に想像的に同一化してしまって、せっかく開きかけた無意識への回路が閉じてしまうから駄目で、「空白をもつ解釈」を与えなければならないと書かれている(ということは、ジジェクの態度は根本的に間違っているということになる?)。
空白をもつ(意味が明示されない)解釈には、主にスカンシオンや沈黙という手法がある、と。例えば、分析主体の語らいのなかに無意識が開いた徴候がみられた時、ただちにセッションを中断する(スカンシオン)と、無意識は開いたままの状態になり、その開いた無意識の作用によって分析主体の内部でおのずから意味の構成の変化(組み換え)が進行することになる。要するに、流れのなかの適切な位置に切断や空白を配分することそのものが、「解釈」であるということになる。
で、ここで昨日の話と繋がるのだが、適切な位置に切断や空白を配分するということはつまり、リズムをつくるということそのものなのではないか。ラカン派の分析とは、分析主体の語らいの流れ(意味の構成)のなかに、適切なリズムを打ち込む(リズムを変える)ことによって、その構成に介入するということであり、非意味的なリズムが、意味の配置に影響するということになる。
●階層的で閉じられた自律的システム(オートポイエーシス・神経回路)としての人間と、どこまでも閉じられることのない(閉じることの出来ない)水平的で流動的なシステム(精神分析シニフィアン)としての人間の「重ね書き」として人間を考える場合、例えば「音楽」を、一義的にはテクネー(閉じたシステム-秩序の自律的生成)であると同時に意味(ズレつづける開放的システム)でもあるものとして、「言語」を、一義的には意味(開放的システム)であると同時にテクネー(自律的システム)でもあるものとして考えるとすると、自律的システム(神経系的身体・欲動)—-準自律的システム(実践的なテクネー・音楽/演奏できる、音程やリズムがキープできる等)-—準開放的システム(知としての意味・言語/言葉を喋り、聞きとり、意味を操作・生産することが出来る)-—開放的システム(シニフィアン的身体・無意識)というグラデーションの非連続的な隙間(グラデーションでもあり、非連続的配置でもあるものの「隙間」)を、「リズム」が飛び越えて貫いてゆく、と考えることができるのではないだろうか。
●昨日の対談で、クレーが前景でも後景でもなく中景を重視していたという話があったけど、この「中景(受動でも能動でもないもの)」というのは、つまりオートポイエーシス的な技術(秩序)の自己生成の場(人文知的に言えば、「私」という場に「自転車に乗れる」という出来事・技術が到来する)で、そのような出来事の貫入によって、そこから前景として「意味(図)」があらわれ、「マトリックス(地)」が後景へと後退するという分離が起こる、ということではないか。つまり、地から図が浮かび上がるのではなく、中間が生起することで、地と図が分離する。こういう言い方になると、かなり荒川修作(「切り-閉じる」とか)に近づくことになるのだけど。
それは、「神経系(マトリックス)」—「技術・実践」—「意味・知(図)」—「シニフィアン」というグラデーションで言うと「技術・実践(の生成)」の位置の出来事であろう。佐藤雄一さんは昨日、リズムとは、秩序と無秩序の配合であり、あるいは、期待されるものと予想外のものの配合であるという、誰か(忘れた)の言葉を引いていたが、この位置でこそ、無秩序と秩序が最も生々しく混じり合う。つまりこの位置でこそ「リズム」が最も活性化され、重要となる。
●対談の打ち上げの時、以前『台風クラブ』(相米慎二)のラストで、「三上くん」は死んだのか死ななかったのかでちょっとした論争になったことがあるのだが、どう思うか、と聞かれた。
ぼくはあれは、「死ねなかった」のだと受け取っていた。三上くんなりにシリアスに考えた結果、ああいう行動をとったのだが、結果は間抜けなものだった、と。頭が良いとはいえ三上くんはまだ子供で、たんなる「田舎の優等生」に過ぎず、そんな人物を悲劇のヒーロー(あるいはスケープゴート)のように祀り上げて映画を終わらせたら駄目で、ちゃんと道化として突き放してあげるのが(泥から足が出たあの恰好は「笑う」ところだと思う)、登場人物への愛情だと思うし、相米なら当然そう考えるだろうと、ぼくは思う。
三上くんは(台風の祝祭によってではなく)、「特別な優等生」からただの「田舎の間抜けなガキ」に失墜することで、晴れ晴れとした顔で帰って来る工藤夕貴と同様に、「土地」の縛りから解放されるのだと思う。