2023/02/20

●プライムビデオで『雪夫人絵図』(溝口健二)。溝口の映画は基本的に、極めて通俗的で典型的な悲劇が、映画という媒体を得ることでまったく異なる表現の質を獲得してしまうという凄さだと思うが、その「異なる質」を可能にするのが空間の表現で、そしその空間表現の卓越性は、溝口が常に「その場で働いている権力関係」にかんして敏感であり、というか、ほとんどそれだけに関心を集中させているということと密接に繋がっているのだろう。

(木暮実千代がどうしても柳永二郎を拒否し切れない理由には、彼女の心の弱さと同じくらいに、この映画に現れる建築物に「鍵をかけて閉じこもることのできる個室」がないということがあるだろう。)

おそらく、個人の資質や善意や正義といったものはあまり信じられていなくて、すべての人物がその場を支配する権力関係に縛られていて、その関係によって動かされる(権力者もまた権力関係に縛られていて、それは他と変わらない)。ただ、これが単なる機械的なシステムの運行と異なるのは、その関係の中からどうしようもない「感情」が浮かび上がってしまうことだ。あらゆる人物が役割に縛られているコマに過ぎないとしても、そのコマが持ってしまう「感情」のリアリティ(切実さ)だけは「権力関係」に還元されない固有の質をもつ。

溝口のリアリティはそこにある。おそらく現代の人の多くはこの映画の小暮三千代の態度や行動に共感する(理解する)ことは難しいと思われる。しかし彼女が構造の「この位置」にいることによって強いられる逃れがたい「感情」のリアリティ、あるいは「この位置」を強いられることの逃れ難さのリアリティは感じることができるのではないか。

『浪速悲歌』や『祇園の姉妹』から『噂の女』や『赤線地帯』まで、多くの作品で、古い価値観の女性と新しい価値観を持つ女性との(対立ではなく)対比的な共存、協働関係が描かれる。彼女たちは、互いに対して批判的でありつつも、協働している。しかし物語は、古い女性も新しい女性も等しく、古い権力関係に絡みとられて悲劇的な結末に至る。これらの作品で唯一、悲劇的な結末を逃れられるのは『赤線地帯』の若尾文子だけだろう。

『雪夫人絵図』で新しい女性の位置にいるのは久我美子だ。彼女は、木暮実千代上原謙の関係、木暮実千代柳永二郎との関係を、木暮への好意を抱きつつも苦々しく見ているのであろう(『灯台へ』で、ラムジー夫人を見るリリーのように)。しかしこの映画の久我美子が、溝口の他の「新しい女性」たちと異なるのは、彼女はただ「見ている」だけで、何も主張しないし、何も行動しないことだ。この映画で彼女は、「権力関係のどうしようもなさ」をただ見ている以外にどうしようもない。どうする力もない。だが彼女は、たんなる「見者」であることによってコマであることからこぼれ落ち(コマですらないモブということでもあるが)、悲劇(権力構造)に巻き込まれない立ち位置を確保する。もう一人のモブである書生の加藤晴哉は、とうとう我慢できずに柳永二郎を刺そうとするが、久我美子は不満を持ちつつもそれを態度に表さない(表すやり方があらかじめ奪われている)。そのことによって、彼女に何かが蓄積されていく。

映画のラスト、木暮実千代の死によって、主張にも行動にも解消されずに蓄積してきた彼女の感情は最も強い緊張にまで達するだろう。ここで、彼女の持つ感情の強い緊張こそが「権力関係のどうしようもなさ」への抵抗でありえ、希望となる可能性を持つものとして、開かれたまま映画は終わる。久我美子が胸に抱く、未だ何ものでもない不定形の何かだけが、(希望ではなく)希望となりえるかもしれない何かとして残される。

そういう意味でこれは、見者としての久我美子の映画と言えるのではないかと思った。