2022/05/15

●『祇園の姉妹』(溝口健二)。最初から最後までずっと、口をあんぐり開けて「すげえ」と呟きつづけるような映画なのだが、細部と構造の相克ということをちょっと思った。

ここに出てくる古沢(志賀迺家辨慶)というおっさんは、最初はずうずうしいおっさんだと思うものの、次第に、落ちぶれても腐ることも人にあたることもせず鷹揚で、自分の運命を飄々と受け入れて生きている様をみているうちに、このおっさんはいい人で、信用出来ると信じたくなってくる。この人ならば、梅吉(梅村蓉子)と二人で、貧しいながらもずっと仲良くやっていけるのではないかと思ってしまう。

しかし、そんなことになれば、物語の構造から、「保守的で男性に従順な女性の方が幸せになれる」という、主旨を裏切る間違ったメッセージを作品が持ってしまうことになる。

だから、もしかしたら古沢は本当はよいおっさんかもしれないが、作品の構造上、梅吉を裏切らなければならないという運命を持ってしまっている。作品のもつ思想から、あくまで「男はんはみんなあてらの敵」でなければならない。梅吉もおもちゃ(山田五十鈴)も、どちらも悲劇的な結末を迎えなければ、作品としての強さも、リアリティも減じてしまう。

たとえば、この映画のラストが、男たちを手玉にとって成り上がって自律したおもちゃが、貧しくつつましく暮らしている梅吉と古沢を誘って花見にでかけ、ああ、今日は本当に楽しい、いい一日だった、となってもよかったはずだ。しかし、そのようなラストであったら、この映画が歴史的な傑作と呼ばれることはなかっただろう。

たんに、社会的、告発的なメッセージの強さというだけでなく、フィクションにおいて悲劇であることの強さは、ギリシア以来の伝統をもつと言える。

しかしここで仮に(あくまで「仮に」だ)、作品としての強さ(あるいは思想の正しさ)よりも、登場人物の幸福の方が優先されるべきではないか、と、考えてみることも可能なのではないか。

1936年につくられたこの『祇園の姉妹』において、男たちを手玉に取ろうとする山田五十鈴は、男たちから理不尽な逆襲を受けて大怪我をする。しかし、この時の山田五十鈴のかたきをとるかのように、二十年後、1956年の『赤線地帯』の若尾文子は、男たちを手玉にと取って成り上がることに成功するのだった。この若尾文子の成功=幸福は、作品の強さや思想の正しさを毀損せず、それと両立するものだ。溝口は、必ずしも、登場人物の幸福を考えていないというわけではない。

(『噂の女』、『赤線地帯』、『祇園の姉妹』の三本で、「いい人」だと思える男性は古沢ただ一人だ。その古沢でさえ…、というところに、溝口の作品の容赦ない残酷な強さ、リアリティがあるのだが。要するに、いい人だとか悪い人だとかいう個の問題ではなく、社会構造、あるいは関係性に宿る権力構造の問題なのだ、ということなのだし、勿論、それはそうなのだが。)