●『パプリカ』(今敏)をDVDで観た。あまりにも『パーフェクトブルー』と同じなので驚いた。虚実反転(虚実溶解)、自他溶解、分身、そして自己言及。「パーフェクト…」が九七年で、この作品が〇六年。悪く言えば同じことの繰り返しとも言えるが、この頑なな作家的一貫性、持続性はすごいのではないか。
虚実反転、自他溶解、分身、自己言及といった主題は、作品の題材というよりも構造によってもたらされる。つまり、先に実現されるべき構造があり、そのような構造を実現するために必要な細部がひねり出されていると思われる。その時、構造を導くために選ばれる細部や段取り(因果関係の作り方)に、ややぞんざいなところを感じてしまう。そのために、イメージの解像度と展開力、その表現性というところでは本当にすばらしいと思う(目を見張るイメージが次々と現れる)にもかかわらず、どうにも作品にのり切れないというところがあり、それも、『パーフェクトブルー』と同じだった。
(この作品の場合は出だしがすごくて、一体これからどんなにすごい世界を見せられるのだろうと興奮するのだが、いろいろひっかかるところがある度にその興奮は少しずつ少しずつ目減りして、観終わる頃には、うん、まあ、こういうものなのかな、という感じになった。決してつまらないということではないのだけど、最初かすご過ぎて一気の期待が高まってしまうので……。)
(逆に言えば、今敏という作家はもっともっと面白い作品をつくる可能性があったはずで、これが最後の作品になってしまったのはとても残念だ。)
たとえば、登場人物の一人である刑事がかつて映画監督を志す映画青年だったという設定によって、作品に自己言及的な構造が導入されるのだけど、この「映画」というもののあり方が、なんともふわっと、もやっとしたイメージしか結ばないもので、この刑事は、本気で映画監督を目指していたのではなく、にわか映画ファンだったに過ぎないのではないかという感じの自己言及構造になってしまっている。これは『パーフェクトブルー』の劇中劇であるドラマ「ダブルバインド」のリアリティのなさと通じている。
さらに、かつて共に映画を志した友人を裏切って刑事になってしまったという過去が刑事のトラウマとして設定されているのだけど、この「あまりに安っぽいトラウマ」は、要するに作中に刑事の「分身」を出現させるための方便なのだが、ただその都合のためだけに設定されたようなトラウマなので、リアリティがない。この裏切りは、刑事の記憶の表層からは削除されてしまっているくらい深刻なトラウマということになっているのだけど、そこまでのものなのかも疑問だ。
さらに、刑事と友人はかつて「刑事モノ」の映画を共同でつくっていて、だから刑事は友人を裏切ったのではなく、友人との映画の「虚構(物語)」の方を実現したのだ、という形で虚実反転---嘘から出たまこと---が仕掛けられるのだけど、ある意味徹底しててすごいのだが、それって表現として別に「上手く」ないんじゃないかと思ってしまう。
一方、常軌を逸した巨体をもつ天才である時田博士のキャラや、メガネによって強制的に目を見開かされているかのようにみえる島所長のイメージなど、デフォルメをリアルにしているという感じのキャラの造形はすごく面白くて、驚いてしまう。時田博士と敦子との関係も面白い。ここまで面白いイメージをつくっておいて、刑事になると何故いきなり紋切り型になってしまうのか、と(作品の根幹の構造にもかかわる重要な人物なのに)。
あと、この作品の弱点の一つに「敵」が面白くないということがあると思う。こういう話は、敵の「思想」や「存在のあり様」が面白くないと面白くならないと思う。その意味で『パーフェクトブルー』の「犯人」は、意外性があると同時に、知ってみれば(物語上でも、作品の構造上でも)それ以外考えられないと言う説得力もあり、かつ、イメージとしての強さ(強烈さ)もあった。でもこの作品の「敵(黒幕)」は、意外性もないし、思想も取り立てて面白くないし、イメージとしても『三つ数えろ』からの引用という枠から大きくでていないように思われる。夢と現実が混じり合うだけでなく、他人の夢と自分の夢の区別もつかなくなってしまうという底を抜くような構造をもつ物語が、一人の黒幕の欲望に収斂されるという結末では、釣り合わないように思う。最後に出てくる子供も唐突であるように感じられた。
(あと、この作品はノーランの『インセプション』の元ネタになっているのではないかと思った。)