●ふと思っただけで何の根拠もない妄想だが、『バケモノの子』で最も魅力的なキャラクターは一郎彦だと思え、細田守はこの一郎彦の物語こそ描きたかったのではないだろうか。
(キャラたちのなかで一郎彦だけが、声のコントロールのされ方が他とぜんぜん違っていて、改めて宮野真守すげえと思った。)
でも、劇場版オリジナルアニメは「子供からお年寄りまで楽しめる」ような作品でなくてはならないという謎の縛りが何故かあって、一郎彦の「闇」を物語の中心に据えるとそういうものにはならないから、九太というキャラをたてる必要があったのではないか。
(そもそも、『AKIRA』も『攻殻機動隊』も「子供からお年寄りまで」という作品ではなく、そうではない作品によって日本のアニメは世界的に高い評価を受けたのであって、ジブリ=宮崎駿だけが劇場版アニメのスタンダードというわけではないはずなのに、いつの間にかそういうことになってしまっている。とはいえ、『AKIRA』も『攻殻機動隊』もオリジナルではなく原作物なので、オリジナルということに限定すれば、やはりジブリということになってしまい、オリジナルアニメではジブリ的なものが求められてしまうのだが。)
九太にしても、もともと深い闇を抱えたキャラクターなのだけど、バケモノの世界に入ることで、熊徹というキャラの類型性に引っ張られるようにして(熊徹を鏡として)、自身も類型化する。ご飯を食べながら大声を出し、口からご飯粒を飛び散らせる熊徹に対して「きたねえなあ」と叫んでドタバタがはじまる、みたいな、お約束の展開のなかで、典型的な「アニメのなかの少年」になってゆく。この「蓮」から「九太」へと移行する「類型化」こそが、闇に呑み込まれそうだった彼を救ったと言える。九太は、有無を言わせぬ「類型化」のなかで鍛えられて(見よう見まねで「類型」を学び)、生きるための力を得てゆく。ここで重要なのは類型そのものではなく、類型を通して「生きるための力」を得るということだろう。劇場版オリジナルアニメという制度による制約が、一郎彦の闇の物語を、このような、類型に助けられる「九太」の物語への書き換えを強いた、と考えることもできるのではないか。
(バケモノの世界で類型を学んだ九太は、人間の世界で改めて、類型とは別の「闇」を含んだもの---『白鯨』のような文学など---を学ばなくてはならない。世界は類型より広くて深く、人は闇をもつから。だから後半が必要であり、後半で九太は蓮に回帰し、闇を宿す一郎彦に近づき、蓮と一郎彦という互いの鏡像との闘いになってゆく。しかし、蓮が闇に呑まれずに一郎彦に勝てるのは、闇を受け入れた、闇を宿す世界へのナビゲーターである母=楓の存在があるというだけでなく、闇を持たないバケモノの父譲りの「類型的な魂(胸の内の剣)」があるからだ、と言える。ここでも蓮は類型に救われる。)
(「胸のなかの剣」というところで「ウテナ」を思い出し、細田守は橋本カツヨでもあることを思い出す。細田守のなかには、細田守と橋本カツヨの二人が常にいるのだ、というような解釈は、あまりに感傷的過ぎるけど。)
場合によっては「弱さ」にもみえてしまう細田守の作品の「複雑さ」は、このように、欲望がストレートには発揮されず、(様々な事情から)様々な屈折を経て発露されていることから(も)くるのではないか、と考えてみる。