●『響け!ユーフォニアム』、第六話。うーん、今回は、演出にしても作画にしても、いつものキレがなかった感じがする。今回のように、特に大きな出来事が起こるわけではない(しかし予兆を惹起する)インターリュードのような回こそ、演出のキレが試されるのだし、「ユーフォニアム」はまさにそこが素晴らしかったのだけど。
ただ、今回改めてすごいと思ったのが、黄前久美子の役を演じる黒沢ともよの演技だ。今回は、黒沢ともよの演技を堪能する黒沢ともよ回という感じ。そもそも、黄前のキャラは、主役キャラではなく、『ドカベン』でいえば殿馬のような、『ドラえもん』でいえばスネ夫のような、脇にいるべき曲者キャラが、表面だけ主役塗装して前に出ているような感じで、とても複雑で難しいキャラだと思う。それが成り立っているのはこの演技があってこそだろう。
高坂役の安済知佳の演技も絶妙だと思うけど、こちらは、オーソドックスな声優演技として上手い感じなのだけど、黄前の方は、アニメの演技としては破調というか、他にない唯一無二な感じ。おそらく、素で聞けば、上手過ぎてわざとらしい---いやらしい---児童劇団の子役演技みたいに聞こえると思うのだけど、それがアニメにハマることですごい表現力をもつ。それが黄前というキャラに合っている、あるいは、この演技こそが黄前というキャラを創造している。
アニメ特有の---歌舞伎のように高度に様式化された---声優演技でもなく、かといって、宮崎駿細田守の作品のような、声優を使わないリアリズム寄りの演技でもなく、「ユーフォニアム」の黄前久美子でしかない、特有の表現をつくりだしていると思う。リアルさ、リアリティというのは、リアリズムによってつくられるわけではない。
この唯一無二さに拮抗するものとしてぼくに思いつくものは『ゼーガペイン』の花澤香菜くらいだろうか。ただ、「ゼーガ」の花澤香菜の独自性は、はじめての声優としての本格的な仕事ということからくる「慣れていなさ」によるところが大きいと思われる(現在の、もはや大御所ともいえる、上手な花澤香菜にはあの感じは出せないだろう)。対して、黄前の独自性は、高度に技巧的なものだと思う。でもその技巧は、通常の声優演技のコードとはかなり違っている。その違いも、ただズレによって違和感を醸すことで目立つというものではなく、黄前というキャラを表現するための必然として、キャラのあり様と分かちがたく結びついている。一つの演技の質を創造している。
黄前久美子というキャラクターは、アニメのキャラとしてはあり得ないくらいの複雑さをもっている。でも、その複雑さのリアリティーは、実際に存在する人間のように複雑だ、ということではない。アニメのキャラだからこその複雑さであり、リアリティーで、黒沢ともよの演技がそれを(その多くを)つくり出しているといえる。
(例えば、アニメでは、「うぐぐっ」とか「むむむ」とか、思わず漏れてしまう声の表現がすごく様式化されている。様式化された「漏れてしまう声」のバリエーションの豊かさが、感情表現の広い幅をつくっているとも言える。黒沢ともよの演技は、この「漏れてしまう声」に、様式に収まらない独自の屈折した表情と表現力を加える。)