●『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(ジョナサン・グレイザー、この人はジャミロクアイ「Virtual Insanity」のPVをつくった人なのか)をDVDで観た。
これはぼくにはあまり面白くなかった。それでも、スカーレット・ヨハンソンがただ淡々と、与えられた役割というか、ルーティンワークをこなしてゆく様を、無機的で抽象的なイメージとスコットランドの具体的な風土、気象、風俗の描写(と、スカーレット・ヨハンソンの裸)とを対比させながら描いてゆく前半部分は、空虚な美的洗練のようなものがあって、そういうものをことさら素晴らしいとは思わないけど、趣味として嫌いではないので、それなりに面白がって観ることができた。
スカーレット・ヨハンソンは、ある青年と出会うことで、これまで淡々と、あるいは易々とこなしていた仕事が上手く運ばなくなるというか、疑問のようなものが芽生えた感じで、不調に陥る。ここまででもう映画は中盤になっているが、今までほぼ何も起こらなかったこの映画が、ここから動いていくのだろうかという感じが出てきた。
(男をナンパして家に引き入れて殺すことが彼女――人間ではない異生物――に課せられた役割、あるいは使命らしい――その理由は映画では語られない――のだが、ある日とても顔の歪んだ醜い青年と出会うことで役割をこなせなくなる。それまで人間に対して何の感情も持たず平気で殺していたのが、人間に対する興味やシンパシーのようなものが生まれる。それは、男と会った後に鏡のなかの自分の顔を見ることをきっかけに生じたようだ。つまり彼女は、人間という異種には何の感情ももたないが、人間たちの関係のなかで――醜い顔で生まれたことによって――虐げられてしまっているという、「彼の置かれた位置」に対して感情が動かされたということではないか。あまりよい喩えではないが、アリという異種については何の感情ももたず、踏み潰しても何も感じないが、もし一匹だけ他から集団でいじめられているかのようなアリがいたとすると、そのアリに対するシンパシーが生じるのではないか。最初、彼女が何故、この男と会うことで心が動かされたのか納得できなかったのだが、考えてみればそういうことかもしれない。)
だけど、その後の展開――スカーレット・ヨハンソンは自分の役割を捨て、放浪するように「人間たち」のなかに入ってゆこうとする――が、ぼくには面白く思えなかった。ありきたりの展開(食べられない、セックスできない、襲われる)を妙に思わせぶりにしているだけと感じてしまった。彼女が、人間たちと関係をもとうとするのだが、それが上手くいかなかったということを、もっと具体的な出来事として描いてくれないと面白く感じられないと思った。
(ただ、レストランのシーンで、光の状態と構図がすごく面白いカットが一つあった。)
前半は、内容の空虚さというか、反復の単調さを、美的なテンション、充実によって支えている感じで、それがスカーレット・ヨハンソンの存在のあり様(いわば皮膚=表面だけの存在――表面だけの存在を肉感のあるスカーレット・ヨハンソンがやっているというのも面白い)と重なっていて、それはこの作品の必然でもあるように感じられた。でも後半になると、大したことは何も起きていないのに、やたらと思わせぶりばかりあるのが気になってくる。美が、空虚を下支えするという機能から、思わせぶりを補強するという機能にかわってしまった、ということなのだろうか。
●序盤で、スカーレット・ヨハンソンは、真っ白な背景のなかで女の死体から衣服をはぎ取って自分の身に着ける。この死体はおそらく人間ではなく前任者ということなのではないか。黒い彼らにとって白とは死であり、だから彼女もまた、雪のなかで死んでゆく、と。あるいは、何人もの男たちを黒い液体に沈めて殺したスカーレット・ヨハンソンが死ぬ時には、火をつけられ、黒い灰になって雪の降る白い大気中に散らばる。黒と白、湿った液体と乾いた灰(あるいは、水と火)、下(下降)と上(上昇)、無機的抽象と有機的自然、皮膚と中味、男と女、あるいは美と醜。このような、単純な二元論的テマティックの循環によって、作品の円環が閉じられる。そういう単純な構造のようにみえてしまった。