●DVDで観た『かぐや姫の物語』がなかなかすごかった。技術的にすごいというのも勿論なのだけど、なんというかえぐい作品だった。
この作品を観ながら思い出していたのは小津の『晩春』で、『晩春』の原節子は映画の最初には本当に幸福そうににこにこ笑っているのだけど、だんだん顔つきが険しくなり、終盤には、人間がこんなに恐ろしい顔をするのかというくらいの、鬼のような顔になる瞬間がある(ああ、鬼のモデルは人間なのだな、と思う)。小津の映画なのだから激昂したりするわけではなく、ただ冷たい無表情の奥に強い怒りを宿しているといった顔なのだけど、それは本当に怖い顔だ。
かぐや姫の物語』のかぐや姫も、冒頭の野山を駆け回っていた幸福な表情から、都での生活に移って、何度か、ゾクッとするような冷たい表情になる。こちらは怒りというより、冷たい表情の奥に深いあきらめを宿しているというか、あきらめ切れない感情の高ぶりを無表情によってようやくこらえているような顔になる。それと、心ここにあらずという、魂の抜けたような顔にもなる。
高畑勲はおっさん(大人の男)が嫌いなのだなあと思う。高畑勲宮崎駿も少年、少女というものを「信仰」していることは変わりないとして、宮崎がひたすら信仰の対象である少年、少女を描こうとするのに対し、高畑は嫌いな「大人の男」の姿を描く。おそらく高畑にとって、大人の男の愚かさを描くことこそが「社会」を描くことなのだろう(そういう意味での「おっさんの嫌らしさ」は、小津の映画にもたっぷりと描かれている)。
かぐや姫の父はあまりにも愚かだ。しかもそこに悪意のようなものがまったくないので始末が悪い。あまりに愚かなので、それに対して怒りを感じることすら空しく思えてしまう。僕自身もおっさんであるのでその愚かさは他人ごとではなく、観ていて「痛い」としか言いようがない。しかし、あまりに愚かであり、その愚かさが自分を不幸にしていることが明らかなのに、それでも娘は父のことが好きなのだ。もし父を嫌うことができていれば、それだけで娘はかなり自由に(楽に)なれたのではないか。そして母は、娘に寄り添いはするが、父に向かって「お前、いいかげんにしろよ、娘の気持ちを考えたことあるのか」と意見することはしない。母はそのようなことはしない人なのだ。そのような家族関係のなかで娘は追いつめられる。そして、時折こみ上げてくる感情をゾクッとするほど冷たい表情で押し殺す時以外は、諦観と、心ここにあらずという惚けたような表情とともに、現状を受け入れるしかなくなる。
高畑勲はサディストなのかもしれない。最初の方で、あれだけ生き生きと幸福そうに動かしていたキャラクターを、少しずつじりじりと締め上げ、追い込んでゆく。爆発しても、不発に終わらせて、さらに追い込む。どんどんと追い込まれることで、キャラクターには確かに、当初にはなかった新たな、苦くも、鋭利で奥深い表情(表現)が生まれ、作品の力となる。
野山を駆け回る野生児であった娘が、「かぐや姫」として強い秩序に抑圧されてゆくという意味で、この作品は「ハイジ」と同じ流れをもつと言える。しかし「ハイジ」では、野生児としてのハイジの力がブルジョア家庭的な抑圧を跳ね返してゆく様が描かれていると言える。だが、父や母への「愛」によってからめ取られたかぐや姫にはその力を発揮することはできず、しかも、ハイジとは違って「帰る山」さえも奪われている。それでもかぐや姫は、強いられた状況のなかでなんとか「生きよう」とする。しかし、状況は(おっさんたちの一方的な都合で)じわじわと切迫し、しかも自分の「抵抗」によって死者さえも出してしまうので、完全に身動きできなくなる。ならば、もう帰る(逃げる)場所は冥界しかない、ということになる。
『晩春』の原節子は、父への怒りと不信を通り抜け、最後には諦観とともに望まない結婚を受け入れる。かぐや姫は、誰との結婚も受け入れないが、都での生活を受け入れているという意味では、諦観とともに状況を受け入れている。原節子が父への近親愛的な愛をあきらめたように、かぐや姫もまた、捨丸への愛を(意識するより前に)あきらめている。かぐや姫は、父への怒りという過程がないままで諦観にたどり着く原節子であるともとれる。
とはいえ、かぐや姫が「男たちの秩序」で成り立っている都の生活を受け入れているのは、あくまで父や母との関係によって紐づけられているからであろう。だから彼女は、結婚することによって、男たちの秩序の「内部」に位置づけられること(父や母との関係とは切り離された、自律した関係の網の目の内部に入ること)については、あくまで拒否する。しかし、その拒否の身振りそのものが、男たちの秩序のなかでは彼女の「値段をつり上げる」行為となり、とうとう最高権力者から求婚されることになる。帝の存在は秩序そのものとも言える。
そうなると彼女は、秩序の内部に入ることを受け入れるか、「この世界」全体を拒否するか、どちらかしか選択できなくなる。「この世界」のなかで自分がいることを許された場所は、自分がいるべき場所ではない。だからもう、月に帰るしかなくなる。だけど、かぐや姫が自ら進んで「月に帰る」としたら、彼女は帝を拒否したことになり、父や母を帝に対する反逆者にしてしまう。だから彼女はあくまでも、無理やりれ連れ去られるのでなければならない。
娘がそこまで考えていることを、「父」は想像することすらしないだろう。だがそこで父を責めてもどうにもならない。父が、そういうことは分からない人なのだということは、それが父という人なのだから、もうどうしようもないことだ。ただ、呑み込みきれない感情を、「はあー」とため息として出すことしかできない、という感じで、苦いため息を噛み締めて映画は終わる(このような家族関係は、やはり小津的だなあと思う)。