●『小早川家の秋』(小津安二郎)をDVDで。この映画をはじめて観たのは二十歳前後の頃のことで、場所は銀座の並木座だった。プリントの状態は最悪で、リールによって、画面全体が赤く染まっていたり黄色く染まっていたりした。音も割れていて所々せりふが聞き取れなかった。それでも非常に興奮しながら観た。それに比べるとDVDで観られる画面の調子はとても繊細で美しく、「小津は、モノクロ映画ほどは豊かな諧調が出せないカラー映画では、意識的に平板な色調を使用した」という最初に刷り込まれた認識が、多分にプリントの状態の悪さによってもたらされたものであることを後から知ったのだった。
それから二十五年の間、常に関心の中心にあるというわけではないにしろ、折に触れて小津を繰り返し観つづけていて、そしてそれは常におもしろく、その都度様々に違った形で刺激的だ。
若い時には、小津の映画の形式的なユニークさや過激さに興奮し、そこに夢中になって観たのだったが、今、改めて観ると、むしろ「内容」こそがぐっと胸に迫ってくる(対して成瀬などは、その形式性や抽象性こそをおもしろく感じるようになった)。もちろん、小津以外に小津のように撮った人は一人もいないというほどに際立った形式の特異性はますます強く感じるようになっている。実際に撮られているのは古い日本家屋のなかにいる人物たちなのだが、観ていると、宇宙に直に吹き晒されて人物が存在し、動いているように見える。構図やモンタージュの異様さも半端ではない。しかしそれらを飛び越えるようにして、「内容」がぐさっと胸に刺さってくるようになった。
●「ああ、人はこのようにして死ぬのだなあ」と感じた。「人が死ぬ」という出来事を、こんなにもシンプルに、リアルに撮った映画が他にあるだろうかと思った。一人で観ていて、その感じがあまりに生々しく迫ってきてしまって、どうしようかと狼狽えたくらいだ。そして、人が死ぬという当然といえば当然に事実に対して、その周りの人はただ「ぽかんとする」しかない。その「ぽかんとする」感じの何とリアルなことなのだろう。特に、新珠三千代の「ぽかんとする」表情が突き刺さるくらいにリアルに感じられた。
●小津の映画を観ていると、男性というのはなんと不潔なものなのだろうかと感じる。個々の男性が不潔というよりも、男たちの関係が不潔だという感じ。そしてそれに対し、女たちは常に怒りを感じているように思える。その怒りとは、ほとんど諦めのようなものなのだが、諦めとして噛みつぶし切れずにくすぶるような嫌悪が残る、という形で表現されるようなものなのだが。そしてこの怒りは、その裏腹のような「親しさ」と不可分である。
もちろん、いかにも脂ぎって不潔そのものであるような男がでてくるわけでもないし、女の怒りが強く押し出される場面があるわけでもない。人物たちは皆抑制的であり、家族関係は、「困ったお父ちゃんだ」「なにもそこまでキツいこといわなくても…」という程度の波風で、親密さもあり、まあ、平穏に仲良く、うまくいっているという部類に入るだろう。しかしその底に潜在的にある、関係と力と感情の多層的な流れが、きわめて繊細に的確にとらえられている。
●小津の映画において原節子は常に未婚(であるか未亡人)であり、それによって未婚の若い娘(この映画では司葉子)との連帯関係が可能である。それに対して、既婚の女性(新珠三千代)は、男たちの関係の網の目に把捉されることで孤独である。彼女は、男たちの秩序のなかにありつつ、男たちの関係からは排除されることで孤立する。もちろん、未婚の女性たちも男たちの秩序の内部にいて、だからこそ策略的に、半ば強引に「見合い」をさせられ、「既婚者」となることを要請されている。しかし、未婚の女性たちはそのような男たちの秩序とは別種の、未婚女性たちの連帯という関係をつくり得る。司葉子は、原節子との関係によって、男たちが勧める結婚話を断り、札幌に行くことを決意できる。この、原-司関係は、「お父ちゃん」の昔の愛人である浪花千栄子(と団令子の母娘)にまで遠く響くものがある。しかし新珠三千代は、そのような未婚者たちの連帯からも排除されている。
●この映画の一方に軸には当然、「お父ちゃん」の死があるのだが、もう一方の軸として、既婚女性である新珠三千代の孤独があるのではないか。上記のような孤独のなかで新珠三千代は、「お父ちゃんに過剰にキツくあたり」、「キツくあたったことを後悔し」そして、「その死に対し、ぽかんとしてしまう」。父の唐突な死に対して「ぽかんとする」新珠三千代の表情がこんなにも胸に迫ってくるのは、それ以前の場面の連鎖のなかでその孤独を見せられているからではないか。主婦として小早川家の中心にいながらも、その中心がそのまま陥没点であるかのような位置に彼女はいる。もちろん、小津の映画において新珠の孤独をことさら表現するための心理描写などはまったくない。その孤独はただ、具体的な描写や会話によって示される、他の人物たちとの「関係」によって、位置としてのみ示される。
●松竹における小津作品であれば、このような既婚者の位置には、いかにも女性的、母神的なイメージをもつ三宅邦子がキャスティングされただろう。しかしこの映画ではまったく異なる、さばさばしてクールな印象である新珠三千代によって演じられている。このことが、この役を、というより「ほかん」として途方に暮れる表情の味わい深さを、いっそう際立たせているように思われる。
新珠三千代が「ぽかんとする」一方で、浪花千栄子が「ぽかんとする」表情もまた、きわめて印象的だ。娘であり既婚者の系列にいる(正統な位置に居て、だからこそ孤独である)新珠も、愛人であり未婚者の系列にいる(いわば非公式の位置にいる)浪花も、人の死に対して同じように「ぽかんとする」のだし、「ぽかんとする」しかない。
●このDVDには特典映像として映画の予告編がついているのだが、それを観たら、出演者たちの記念撮影みたいなカットに監督の小津が写り込んでいた。ほんの短い一瞬だけど「動いている小津」をはじめて観た。シンプルでモダンな服をパリっと着こなしていて、「キザという言葉が板に付いている人」みたいな感じだった。立ち姿もしゅっとしていて、この一年後に亡くなる人には全然見えない。
●引用、メモ。『解明 M.セールの世界』より。現代は「超越性」が「内在性」のうちへと折り畳まれるような状況であり、もはや「われわれが生んだ活動がわれわれの母となる」ような時代である。そのようななかでは、自然と文化が別のものではなくなり、道徳と客観性が別のものではなくなる、と。
《たしかにわれわれは、いまでは地球や宇宙の支配者になりした。しかしながら、自分自身を制御することはこの支配から逃れてしまっているように思われます。あらゆる事物を把握してはいるのですが、自分自身の行為は制御できないでいます。まるでわれわれの力そのものがわれわれ力から逃れてしまっているかのようです。》
《われわれがたちまち征服してしまうので、熟慮にもとづく意図はこの征服に追いつかないのです。実際、技術的進歩のスピードアップを観察してごらんなさい。なにかが可能だと知らされるや、競争か模倣か利益の垂直斜面に沿って、即刻どこかで実現されてしまい、それからすぐに望ましいものだとみなされて、そして翌朝には必要なものだと考えられてさえしまいます。もしそれが奪われたら、裁判所に訴えでることでしょう。》
《量の科学の後で、質の科学が始まりました。このことは話しましたね。それから諸関係の科学がやってきましたが、これも前に述べました。そしていまでは、われわれは明らかに、もろもろの在り方の、つまり、可能性、実在性、偶然性、必然性の科学に到達しているのです。したがって、もはや自然界の不可避(=必然性)のなかに生きているわけではなくて、一つの知のさまざまな在り方のうちに生きているのです。》
《つまりわれわれは、自分の子供たちの性別を選択しなければならなくなり、この子らが正常であることを生まれる以前に確かめておかなくてはならなくなり、自然界のバランスを保たねばならなくなり、多様な生命が地上に存在しているように段取りをつけてそれらの生命を保護していかなければならなくなる、というようなことなのです。同じ行為について話しているのに、そうとは気づかずに、《できる》という動詞から《しなければならない》という動詞に移行しているのですよ。なんという思いもよらぬ道徳の逆転なのでしょう。》
《どうして義務があるのか。それはわれわれが、局所的かつ総体的な実質的全存在の擁護者、維持管理者、あるいは推進者となるからなのです。物理的、客観的に。どうしてあれこれの責務を負っているのか。生命が生き延びるためです。生物学的には少なくともそうであり、それ以上ではありません。》
《借方(ドワ)イコール事実(フエ)。われわれの行為の結果が、その行為が課す条件と合流しているのですから、義務は事実に等しくなります。われわれが生みだすもろもろの技術や対象が、われわれ自身を事実の集合体のうちの一部としてつくりだすからです。われわれが生んだ活動がわれわれの母となるからです。われわれは、自分たちでかなりゆっくりこね上げている地球と生命を介して、われわれ自身の最初の先祖、アダムとイブになるのです。》
《われわれの科学的、技術的支配力が、われわれの超越性を、内在性のほうへと、内在性のうちへと、内在性のために、絶えず流れさせているのです。われわれの新たな倫理のタイトルは「自然あるいは人間」です。自然とはつまり文化のことです。道徳とはつまりもろもろの客観法のことです。》
●このことは、少なくとも(「宇宙」ではなく)「地球」という規模で考えるなら適当なことであるように思われる。エコロジーというと、なにか(理想化された)過去への回帰の思想のように考える人もいるけど、そうではなく、人類のテクノロジーが、「〜できる」範囲を増大させてゆくイケイケの段階から、「〜しなければならない」という制御と管理の段階へと図と地が裏がえってしまったことによって逃れがたく浮上してくるものなのだろう。環境による人類への支配と、人類による環境への支配との力関係が逆転してしまったとたんに、人類に、環境(地球)それ自体を維持管理する責務が生じてしまう。その時、自分自身がそこから生まれてくるものである環境を、自分自身の活動によって作り出すという妙な自己言及的ループが出現する。そしてそうなると、文化と自然を分けることはできなくなる。
《人間のテクノロジーは、われわれの行為が生みだしたこれら社会的産物を、生き延びるための諸条件に還元するわけですが、これらの条件が今度はわれわれを拘束することになります。地球の支配者となったわれわれは、ほぼ全世界に及ぶ悲惨な世を構築しているのですが、これがわれわれの未来の客観的な基本データとなるのです。》
●左翼的な言説においては、テクノロジーやシステムによっては決して把捉され切ることのない物質的抵抗(もの自体)は、権力によっては決して把捉され切ることのない主体の抵抗とパラレルに語られていると思う。しかし、権力と抵抗という論の立て方では、物質や主体はまさに抵抗としてしか現れないので、なにかを作ったり動かしたりする力能とはなかなか結びつかない。そうではなく、われわれがそこから生まれる条件であると同時に、われわれの活動によって否応なしに変質してしまうもの、われわれ(われわれの活動)と相互作用する自己言及的ループのもう一方の項としてある「物質=自然=文化=環境」を考えるということなのだろう。それは、基底であると同時に対象であり、われわれの存在の源でありその根本を規定するものであると同時に、われわれによって干渉され、変質させられ、管理されるものでもある、ということになる。