●作品が、ある一定方向の感情や感覚に染め上げられ、それを歌い上げてしまえば、その行為は制作ではなく扇動であり、それは作品ではなく誘導となり詭弁となってしまう。それは人を言いくるめようとしているのとかわらなくなる。作品は常に、複数の力、複数の感情、複数の感覚の混合状態として、拮抗状態としてあり、そのような混合、拮抗のあり様によって、その総合によって何かを表現する。
「感じる」というのは、一つの感情、一つの感覚に支配されるということとはまったく逆のことで(ましてや「一つの言葉」に収束するというものではまったくなくて)、複数の力、複数の感情、複数の感覚の混合であり、その配分やそれらが相互作用する状態をそのまま正確に受け取ろうとすることだ。だから「感じようとする時」あるいは、「感じられた」と感じる時は、感覚がその計算能力を最大出力にして計算している。感覚とはだから、解答ではなく状態であり、複数の感覚間の関係づけでありその総合であろう。総合とは、総合するという行為であり、総合するという行為が持続する限りは総合がなされているという状態であり、つまりそれは「計算が行われている状態」であって(「解答」とは、その計算がそのように行われていること、それ自体であろう)、計算が終了すると総合は消える。つまり感覚も消える。
●だが、計算(感覚)の後にその残り香のようなものが残る。それは、「ここ」にはないがどこかにはあるものとの極薄の通路だ。その残り香こそが、未知の気配と反応し結びついて、次の(別の)計算の呼び水となり、足がかりとなる。
●シンプルに見える作品とは、「複雑な状態」が「そのまますんなりと入ってくる」ということであるか、あるいは、「単純な状態」が「こちらに対して複雑に働きかけてくる」ということである。どちらにしても単純なことではない。
●分かりやすい作品は人から「感じる」ことを奪う。
●今日の机の上。