地井武男が亡くなったことを知った。「ちい散歩」が唐突な感じで終わってしまったのはからだが悪かったということだったのか、と思った。
ちい散歩」が数ある「ぶらり旅」的な番組のなかで際立っていた一番の理由は、地井武男という人の人柄にあったのではないかと思う。芸人のいわゆる「素人いじり芸」(毒蝮三太夫とか萩本欽一とか笑福亭鶴瓶とか)などとは根本的に違う何かがあったのだと思う(芸人の素人いじりが悪いと言っているのではないが、ぼく個人としてはどうしても違和感をもってしまう)。町の人の話にとおりいっぺんに感心してみせたり、うまく調子を合わせたりするだけでなく、時には自分の意見を言い過ぎてしまい、その後に「なんか生意気言っちゃって申し訳ない」みたいに反省するところとかもとてもよい感じだった。
ちい散歩」には、地井武男がスタッフに話しかけたり、あるいはスタッフ一同で一休みしている場面がしばしば放送された(地井武雄が缶コーヒーをスタッフにふるまったり、あるいはゲームで自分が勝ったらプロデューサーに全員分おごらせるということもあった)。そういうのも、意識的にスタッフの方に話をふって「内輪的な場の空気」をテレビの向こうまで広げようとするような(とんねるずとかがよく使うような)楽屋落ちみたいなことと根本的に違うことように感じられた。現場でもっとも年上で経験が豊富だというだけでなく、おそらくスタッフのほとんどが自分の子供より年下という環境のなかで自分がどう振る舞うかに気をくばっているというのが伝わってくる感じ。時には若いスタッフに向けてアドバイスや注意のようなことをしているところが放送で流れたりもしたが、そういうことも含めて、人柄がでている感じがとてもよかった。スタッフの一人一人を本当にかわいいと思っているんだろうなあ、というのが伝わってきた。
●人は、遠いものたちの間に近さ(秘密のつながり)を聴き取り、密着したものの間に距離(隠された断絶)を見つける。あるものとあるものは、ある側面からみれば近く、別の側面からみれば遠く、また別の側面から見れば近くもあり遠くもある。それは、ものは見方(言い方)次第でどうとでも見える(言える)ということではない。ある側面と別の側面とそれとはまた別の側面のすべては実在し、潜在性のなかで互いに影響しあっている。見えているものがすべてではないということは、見えていないもの(たとえば構造とか無意識)こそが重要(深層-真相)だということでもない。見えているものも、見えていない複数の層も、すべて同等に重要であり、すべてが相互に絡み合い影響し合っている。「あり得る」ものはすべて「ある」ものに影響を与える。
●隠された構造-真相を探るのではなく、支配的な層に対するオルタナティブを示すのでもなく、共存する複数の層の相互関係(相互干渉)を探り、そのなかでなし得る行為を(それがもしあるとすれば)探る。
●高度な作品(秩序)は、一見すると無秩序と区別がつかない。複雑な作品は、再帰性を揺るがし、再帰性が成り立っているという事実そのものに疑問を投げかける。しかしそれは、一方で優れた再帰的能力(パターン認識力)を前提とする。高度な再帰的能力(あるいは、強い再帰性への希求)こそが、再帰性そのものの疑問へと否応無く突き当たらせる。逆に、再帰性への疑問を追求するためには、高い、かつ、柔軟な再帰的能力(パターン認識力)が必要とされる(遠いものたちのなかに近さを聴き、近いものたちのなかの遠さを聴く)。
●わたしは、他人のなかにわたしを聴き、わたしのなかに他人を聴く。「わたし/あなた」は「あなた/わたし」へと置換可能であるが、しかしそれは「わたし=あなた」ということには何故かならないようなのだ。
●今日の机の上。