2021-05-12

●以下は、ぼくが以前書いた「ライオンと無限ホチキス」という小説から取り出した二つの断片です。「群像」の2012年4月号に掲載されています。

http://gunzo.kodansha.co.jp/10050/12507.html

 

あなたたちがいなくなって何年になるだろう。あの日、ギャラリーのスタッフは鈴がちりんと鳴るのを聞かなかった。あの黒い台は、その滑らかな表面にあなたたちを映すことはなく、ただ、ガラスの外を降る雪だけを映していた。起こしに来てくれる人たちを失ったわたしは、あれからずっと眠りつづけている。

あなたたちの部屋の、ケヤキの木が見える窓と反対側の、ベッドの枕の上辺りの天井近くに作りつけられた戸棚のなかには小さなライオンがいることをわたしは知っている。ライオンは昼間眠っていて、夜の間じゅう、戸棚のなかを円を描くようにぐるぐるとまわっている。小さくてものっしのっしと威厳をもって。あなたたちが消えた後も、その習慣はつづいている。だけど、わたしはすべてを知っているわけではなかった。あなたたちが消えてしまった二週間後に、それまでのライオンとそっくりな別のライオンにすり替えられていたことまでは知らない。そのライオンを、二頭目のライオンと言ってよいのかどうかも分からない。戸棚のなかのライオンのすり替えは、これまでも何度も繰り返されてきたことかもしれないからだ。間違いのないことは、それらのライオンがすべてそっくりであることと、どのライオンも、昼間は眠っていて、夜の間じゅうずっと、ぐるぐる歩いているということ、戸棚の外へは決して出ないことだった。

もう一つわたしが知っているのは、ベッドの足元に位置するドアから出たキッチンの、テーブルの上に置かれたコーヒー豆挽きの湾曲したアームが、三日か四日に一度くらいの間隔で、四、五回くるくるっと自動的に回転することだ。そして、アームが回転すると必ず、どこからか積み木が倒れたくらいの小さな音が、コトンと聞こえてくる。

あるいは、彼女は物知りだと評判のギャラリースタッフのAならば、あなたたちのいなくなった部屋についてもっと多くのことを知っているかもしれない。たとえば、洗面台の棚に置かれているはずのカミソリが、時々きまぐれに、キッチンのシンクにぽつんと置かれていることがあり、その時には必ずシンクに水が張られていて、つまりカミソリが水没する、とか、洗面台とキッチンの流し場との両方に水切りケースに入れて置かれている石鹸が、正確に五十七時間と三分三十三秒に一度入れ替わる、とか、その時、きわめてかすかにではあるが、洗面台にはコーヒーの香りが、キッチンには歯磨き粉の香りが、ふわっと漂うのだ、とか、そういうことを。

 

ギャラリースタッフのAは、あなたたちが消えてしまった後もギャラリーで働いている。ギャラリーからは、ケヤキの木に隠されてあなたたちの部屋の窓は見えない。それにそもそも、Aはほとんど奥のオフィスにいる。

ギャラリーは水曜が休みなので、水曜にはガラス戸を押しても開かないし、鈴もちりんと鳴らない。普段は、Aともう一人のスタッフが切り盛りしていて、社長は週に一度と展覧会のオープニングにしか顔を出さない。精力的に飛び回っていると言えば聞こえはいいが、そうしなければならないほど経営は厳しいのだ。Aはあなたたちと面識はないはずだが、あなたたちのことをよく知っている。あなたたちとAとの初対面となるはずだったあの瞬間より前に、あなたたちは消えてしまった。奥のオフィスで事務仕事をしながら、Aはしばしばあなたたちのことを考える。そうするとどうしても手が止まってしまうし、ぼんやりしてしまう。そして時々、もう一人のスタッフからやんわりと注意される。

全体に無機質でさっぱりしたオフィスには似合わないが、壁には鹿の首の剥製が飾られている。それは社長の趣味で、社長自身が海外で仕留めてきたものだ。鹿は四本の角をもつ。内側の二本は軽く弧を描いてシンブルにすっと伸びている。外側の角は木の枝のように枝分かれして、大きく外側へとひろがっている。威嚇するように拡張する角とは対照的に、鹿はつぶらな瞳をしているし、鼻面の延びた顔からは攻撃性が感じられない。それとそっくりな鹿が、社長の家にももう一頭いる。これは公然の秘密というか、誰もが知っているのだが誰もあえてそこには触れないという事実なのだが、Aは社長と同棲している。だからAは、家に帰ってもそれとそっくりな剥製を目にすることになる。オフィスでも家でもAはそれをずっと目にしつづけ、時にじっと見つめるが、決して飽きることはない。