●美的であるというのはどういうことか。それは、たんに人をうっとりさせ、恍惚とさせ、欲望を刺激し、あるいは熱狂させるということではないだろう。そうではなく、そちらへ興味を向けさせ、興味を持続させ、そこへと深く分け入ってゆきたいと感じさせるということではないだろうか。
●だからそれはまず、十分な肌理の細かさを、つまり、密度を、諸要素間の相互関係の緊密さを、こちらの追求に応じるに余りある汲み尽くせない深さがあると感じさせるだけのものを、持つということだろう。
●そしてさらに、それを構成する諸要素の関係のあり様が新鮮であり、かつその新鮮さが持続することも必要であろう。つまり、関係がありきたりや紋切り型でないだけでなく、より詳細に、じっくりと見ていった時にも、簡単に構成パターンが予測されることなく、深く入れば入るほどそこに予想外の新鮮さが新たに付け加えられるということであろう。ありきたりではない新鮮な秩序(感覚)への予感があり、秩序のある程度の把握(感覚の味わい)は可能でありつつ、同時にその全容はつかみきれないと感じられること。
●それはつまり「現実(リアル)」ということではないか。そこにいくら深く分け入っていってもそれに相応した密度があり、諸細部に緊密な関係(秩序)が成り立っていると感じられ、しかしその秩序を完全に把握できるわけではなく、常に未知の出来事がそこから到来してくる場所について、われわれはそれを「現実」だと感じるのではないか。つまりわれわれは「美」という指標によって現実が現実であるという説得力を測っていると言えるのではないか。現実的な妥当性は通常、美的判断によって測られるのではないか。
●リアルなものとは美的なものであり、美的であるということはリアルであるということではないか。あるいは、美によって現実とのつながりを保たれているのではないか。だからこそ、現実はフィクションによって構築されている。
●六月に撮った写真。