●『serial experiments lain』を観たことに刺激され、それとの関係で『電脳コイル』についてちょっと考えたい。なお、改めて『電脳コイル』を観直したわけではないので、記憶違いなどもあるかもしれない。
●『電脳コイル』もまた『serial…』と同様、(1)現実世界=この世、電脳世界=あの世というニュアンスをもつ。しかし、(2) 『serial…』における、ガイア主義的全体主義に至るような(オカルト的)拡張性は、巧妙に抑制されている。『電脳…』は、あくまで「小さい話」として納まるようにつくられている。
(1)について。『電脳…』の世界像は『serial…』のそれを引き継ぎつつ、さらに発展させている。『serial…』では、現実世界=この世と電脳世界=あの世があり、この世のなかではあの世の存在であり、あの世のなかではこの世の存在であるかのような主人公が、二つの世界を相互包摂的に結びつけて、循環的な関係をつくっている。対して『電脳…』では、古いものと新しいものという二つの電脳世界がある。新しい電脳世界はほぼ現実に取り入れられ、現実とぴったり重なっている。そして、新しい電脳世界への書き換えに取りこぼされて生き残ってしまった古い電脳空間が、あの世への通路として捉えられている。「この世(現実空間+新しい電脳空間)」で、「あの世(古い電脳空間+さらに深くにあるもの)」という関係になる。だが同時に、「物質的現実世界(現実空間)」、「電脳世界(新しいこの世的電脳世界+古いあの世的電脳世界)」、「さらのその奥のあの世(死)」という区分も可能だ。ここに電脳空間の二義的な媒介性が浮上する。
つまり「電脳世界」は、一方で行政とメガマスという巨大企業によって管理された公的空間であり、非常にシビアな「現実」である(舞台となる大黒市は、行政が半官半民で行われている)。しかし他方、電脳空間にはもともとそれを創出し、現在はつぶれてメガマスに吸収されたコイルズという会社によってつくられた謎の制御困難な「古層」が存在し、それが現実(物理的空間+新しい電脳空間)を内側から危機にさらす「あの世」的な存在の温床ともなっている。
ぼくが『電脳…』で一番好きなのは、この取り残された「古い空間」という概念だ。あるいは、古い空間が新しい空間と(同じ場所に)ズレたまま重ね描きされているという感じが好きなのだ。古い空間は、通常の、公的な電脳空間からはアクセスできず、回り道のような特別な順路を通ることではじめて到達することが出来る、というのも面白い。つまり、通常は回路が閉じている(存在しない)が、ある手順を踏むことであらわれる。そしてこの古い空間の最も深いところがあの世とつながっているとされる。
(2)について。これは非常に重要なのだが、『電脳…』における電脳世界は、ワールド・ワイド・ウェブではない。この作品の主要アイテムである電脳メガネは、カーナビが発展したようなもので、その画面が立体化して現実空間とぴったり重なっている感じだ。つまりそれは、空間を否定して無限に拡張するネットワーク(インターネット)でなく、空間と正確に重ねられた、今、ここを二重化するホログラムなのだ。これは、現実空間を管理・制御するために行政によって導入されたシステムなのだ。これははっきり『serial…』と逆を向いている。登場人物たちは、「サッチー」と呼ばれる、市が管理する違法なプログラムを削除するオートマトンから自分の足で「走って」逃げなければならない。古い空間に至る順路を「歩いて」行かなくてはならない。電脳空間はホログラムに過ぎないが、物理的な現実空間や身体とぴったり重なっているため、空間をショートカットできない。
『serial…』的な電脳空間への没入は、一種のアナーキズムユートピアを指向するが(橘総研という大企業が絡んではいるけど『serial…』では大企業は陰謀論的な匂いを醸し出す装置であろう)、ここでは、電脳空間が現実空間を覆い尽くしているので、管理社会的なディストピア世界だと言える。
●だがこのことが、物理的な制約をもった現実的な身体によって電脳空間へ介入するという感覚を生む。ここにある種のアニメーション的な面白さが賭けられてもいる。そして、物理的な空間とぴったり重なった電脳空間は、そこに生じる僅かなズレ(バグ)に大きな意味を付与する。物理空間と電脳空間とのズレ(バグ)は、古い空間(あの世)への通路となるだけでなく、メタバク、メタタグ、暗号、といった、本来物理的世界の物理的法則と同様の規則に従っているはずの電脳世界の秩序に、魔法的に、イレギュラーに作用し介入する手段が生まれる。魔法は、現実的物理空間には作用しないが、(物理的空間とぴったり重なって見分けのつかない)現実的電脳空間には有効に作用する。このことが、本来ハードな管理社会的ツールである新しい電脳空間(現実空間を完璧に管理する電脳空間)を「幻想的」に色づけすることになる。本来ハードな管理空間であるはずのもの(現実)が、ズレ(バグ)によって幻想化されるところに、この作品の魅力の源があるように思う。
だが物理的身体による電脳空間への直接介入は錯覚である。現実的な身体の運動は直接ホログラフに作用するのではなく、電脳メガネを通じたネットワークによって電脳世界を管理するサーバにアクセスし、そのフィードバックが電脳メガネの映像を変化させることで、電脳世界が変化する。だからホログラムには触っても触覚はない。この時、電脳メガネによってスキャニングされた物理的身体の状態や運動のデータが「電脳体」と呼ばれる。ここで面白いには、『ゼーガペイン』における人間とロボットの関係が反転しているかのようなところだ。
ここで、電脳メガネはたんに物理的な身体をスキャンしているだけでなく、意識とも交通しているらしいとされる。意識のみで電脳メガネを操作できる「イマーゴ」という能力は特殊だとされるが、そもそも稀にでもそれが可能な人物がいるということは、そうでない人の意識にも多少は介入していることになる。このことと、管理空間の幻想化があいまって、(本来は身体の位置や運動のデータであるはずの)電脳体が、まるで「精神」であるかのような感覚(錯覚)が生まれる。電脳体と物理的身体にズレが生じると「意識がもっていかれる」という設定に説得力を与える感覚が浮上する。
物語では、しばしば、現実世界=この世、電脳世界=あの世というニュアンスが利用される。そしてここにもう一つの紋切型が浮上する。それは、現実世界=身体、電脳世界=精神というニュアンスの、心身二元論だ。現実=身体、電脳=精神という二元論はそれ自体ではきわめて退屈な紋切型にすぎない。しかし重要なのは、特定のある作品が、この二元論のまわりに、どのような諸要素、諸記号を、どのような配置で構築するのかという点だ。『ゼーガペイン』ではそこも面白かった。電脳をめぐる物語は、否応なくある種の心身問題への解答として構築される。だが残念ながら、『電脳…』は心身問題というレベルでは退屈な紋切型を脱していないように思われる。物理的身体と電脳体のズレは、よく言われる幽体離脱とあまりかわらない。
●この作品のユニークさは、「小ささ」に留まる抑制にもあらわれている。既に書いたが、この物語の設定は、メガマスという大企業と行政とが協力してつくりあげた電脳による高度な管理社会であろう。しかしそれを決して社会的なディストピア物語とはしないのだ。これはあくまでも子供たちの物語であり、外的なリアリズムではなく心のリアリズムとしてのファンタジーだ。子供たちの前にあらわれているのは、強大な管理社会ではなく、リアルとバーチャルが重ねあわされた「ごっこ遊び」の空間だろう。実際、子供は、電脳メガネなどなくても、現実を素材にして組み立てられた幻想のなかに住んでいると言っていい。しかし、幻想とは好き勝手に思い通りに描けるものではない。幻想は、現実を素材とし、現実に対して大きな齟齬を生まないという範囲で、現実を耐えられるものに書き換える作業だろう。現実との齟齬が大きくなり過ぎると、その齟齬そのものによって幻想する主体は押しつぶされてしまう。
『電脳…』は、幻想する子供たちの前に不可避的にあらわれる「齟齬」への、子供たちによる抵抗、摩擦、調整、跳躍の試みの物語であり、それにともなう様々な感情の変化についての物語であろう。物理的空間と電脳空間とのズレによってその齟齬が表現され、齟齬はポジティブにもネガティブにも作用する。だから、物語を構成する諸要素は、齟齬を生むためにある程度社会的(社会的にリアル)でなければならないが、社会性や世界像の提示が主題ではないので、社会性があまりに大きくなってもいけない。この小ささの維持への工夫が面白い。
例えば、この物語は、大企業と行政が強力に監理する世界で、あの世までを巻き込んで展開しつつも、ごく身内だけで起こり、収束する。事件のそもそもの発端となる仮想空間をつくりだしたのはコイルズに依頼された主人公の祖父だし、主人公の父はそれを引き継ぐ(その痕跡を消そうとする)メガマスに勤めている。電脳空間で魔法のような作用を生む「暗号」は、主人公の祖母に端を発し、行政側で電脳空間を管理するおばちゃんも、黒幕として裏で糸をひく猫目も、主人公たちと同様に祖母の弟子なのだ。この物語は、発端から収束まで、原因から結果まで、すべて、主人公、ヤサコとイサコの周辺の人物だけで閉じて完結している。「あの世」でさえ、これら人間関係のなかで生み出され、消されてゆくもので、それ以上の広がりは(とりあえずは)封印されている。物語中で最も「悪い奴」である猫目の行動の動機も「父の名誉挽回」であり、物語の外への拡張が丁寧に断たれている。
あるいは、企業と一体化した行政によってすすめられる、電脳空間による現実空間の完全な把捉というディストピアは、どうやら舞台となる大黒市の他、いくつかの市町村で実験的に取り入れられているだけらしいのだ。つまり、このような世界像そのものが、主人公たちをめぐるローカルな範囲で成立しているだけであるようなのだ。
物語に動員される諸要素、意匠、アイテム、社会像などは極めて先進的で、「大きな話」を語りそうな規模をもつ一方、実際に語られる範囲はほとんど都市伝説のレベルの小ささに納まるように抑制されている。それは幻想のレベルに留まり、誇大妄想にまでは発展しない。