●引用、メモ。『量子宇宙への3つの道』(リー・スモーリン)より。
この宇宙には、古典物理学的な意味では、時間もなく、空間もなく、ものもなく、ただ、できごととその因果関係だけがある。それ以上分割できない「できごと(情報)」の最小単位(コンピュータの1ビットとほぼ同じもの)があり、それら相互のつくる因果関係がこの宇宙である、と。つまりこの宇宙はコンピュータと基本的には何もかわらない。これは哲学ではなく、物理学の本だ。
一般相対性理論の一般向けの解説書の多くには、「時空の幾何学」についての話が多数含まれている。しかし、実際にはその大部分は因果構造とかかわりがある。(…)空間と時間がいっしょになって時空幾何学と呼ばれる幾何学になるというたとえは、一般相対性理論を理解するうえでは実際にはそれほど役に立たない。そのたとえは数学的な偶然の一致にもとづいているが、これは数学を十分知っていて使える人にだけ役立つようなものだ。一般相対性理論の基本的アイデアは、できごとの因果構造がそれ自体、できごとによって影響されるというところにある。因果構造はいつも固定しているのではない。それはたえず変化し、法則にしたがって発展する。≫
≪(「ある」ではなく)運動と変化が一次的である。何ものもないのだ、非常に近似的な一時的な意味でそうであることを除けば。いかにあるか、あるいは状態がどうであるかは幻想だ。それはある目的にとっては有用な幻想かもしれないが、しかし根本的に考えようとするならば「ある」が幻想だという本質的な事実を見失ってはならない。≫
≪できごとの宇宙は関係の宇宙である。つまり、宇宙のすべての性質はできごとの関係を用いて記述できる。二つのできごとがもちうるもっとも重要な関係は因果関係である。これは先ほど示したように、物語の意味を理解するのに不可欠な因果と同じ観念である。あるできごとを仮にAと呼ぼう。他のできごとBが起きるにはAが必要だったとすれば、AはBの原因の一部であるという。≫
≪どの二つのできごとが与えられても、三つの可能性しかない。AはBの原因であるか、BがAの原因であるか、どちらも相手の原因ではないか。第一の場合にはAはBの因果的過去にあり、第二の場合はBはAの因果的過去にあり、第三の場合はどちらも相手の因果的過去にはない。≫
≪(…)時間と因果律は同義語である。あるできごとの過去という言い方は、それを引き起こした一連のできごとがなければ、意味をもたない。あるできごとの未来は、それが影響を及ぼせる一連のできごとを除いては、意味をなさない。われわれが因果的宇宙を扱うときには、したがって「因果的過去」と「因果的未来」を簡単に「過去」と「未来」と呼ぶことができる。≫
≪このような因果的宇宙について考える一つの方法は、情報の移転を考えることだ。(…)各々のできごとはトランジスタに似ており、過去のできごとから情報を取り入れ、簡単な計算を施してその結果を未来のできごとに送ることになる。(…)コンピュータの回路をめぐる情報の流れは物語だ。できごとは計算で、因果関係はある計算から次の計算へと流れる情報のビットである。これはとても有用なたとえだ―― 一種のコンピュータとしての宇宙である。しかし、宇宙は、回路が固定されていない。回路は、情報の結果が流れるにつれて時間とともに発展するのである。≫
ニュートン物理学は空間と時間を連続的と見なしている。しかし、世界は必ずしもそのようではない。もう一つの可能な答えでは、時間がばらばらの塊になっていて、数えられるものと考える。(…)空間と時間ができごとで構成されていれば、空間と時間そのものは連続的ではない。もしこれが真であれば、時間を際限なく細分することはできない。われわれは最終的にそれ以上分割できないできごとに出会うが、これらは起こりうるもっとも単純なできごとである。物質が数えられる原子でできているように、宇宙の歴史は膨大な数の要素的なできごとで構成されているのだ。≫
≪時間と空間の見かけの滑らかさは幻想なのだ。その背後には数えられるとびとびのできごとの集まりでできた世界がある。≫
≪われわれは周りの世界を静的なものとしては理解できない。それは莫大な数の過程がいっしょになって働いている、創造されたもの、連続的な再創造の最中にあるものと見なさざるをえない。世界はこれらの過程をすべてひっくるめたものである。私はこの言い方が神秘的に聞こえないことを希望する。私が上手く書いていれば、本書の終わりまでに、読者は宇宙の歴史とコンピュータにおける情報の流れのたとえが、もっとも合理的な、科学的類比だと気づくだろう。≫
●下は、『量子宇宙への…』に載っていた「テニスの球のやりとり」における、できごと間の因果関係を示すダイヤグラム。≪各々のできごとはトランジスタに似ており、過去のできごとから情報を取り入れ、簡単な計算を施してその結果を未来のできごとに送ることになる。≫


●下は、同じ図を、オルガの二度目の返球というできごとを起点に、因果的過去と因果的未来とに分けたもの。ここで、できごと「サム、ぼんやりする」は、できごと「オルガ、再び返す」にとっては、過去にも未来にも属さない(観測者「オルガ、再び返す」にとって光円錐の外になることと同等、という理解でよいのだろうか)。ここらへんが、古典的(ニュートン的)時間とは異なるところだろう。