磯崎憲一郎アメリカ」(「文学界」4月号)。1月号の「過去の話」につづく連作の二作目。
●磯崎さんの小説の特異なところは、一方でいかにも現代小説という複雑さがありながら、もう一方でほとんどアルカイックと言っていいと思えるほどの明快さがあるという点だと思う。構造としては入り組んでおり、複雑なのに、明快に感じられるというのは、おそらくひねりはあっても影がないということによるのだろう。淀みやほのめかしといったあいまいさがなく、あらゆる部分が同じ強さで明確に示される。文から文へ、場面から場面への突飛な飛躍を可能にしているのは、このような、明快にぐいぐいと進んでゆくことによる推進力だろう。それは逆向きにも言えて、陰影がなく同じ強さの細部がペタッと並んでいるのに単調にならないのは、文から文へ、場面から場面への「動き(飛躍)」が決して単調にならないからだろう。どこをどう通ってここまで来たのか、この先どこに連れて行かれるのかは分からないけど、「ここにあるもの」は明確に示されている、というような分かり易さがあると思う。
●文から文へ、場面から場面への飛躍は、予想がつかない方向へと向かうのだが、それが単に突飛さや意外性だけによって決定されているのではないことも重要だろうと思う。読みながらぼくは、途中の、《幼い子供が傍にいるとき、私はほとんどそれが自分の子供だということを忘れていた、彼女はまるで全幅の信頼を置くべき監視者のようだった、それでは言い過ぎならば詳細な地図のような存在だった、私がそれを求めて止まなかったのだ。》という部分に引っかかり、これはどういうことだろうと考え、この文を三回くらい繰り返して読み、いったん本を置いてトイレに行ってからつづきを読んだ。そして、小説は途中でアサッテの方向とも言える方向へと大きく逸脱した後、この引用した(引っかかった)部分に戻ってくるような形で終わるのだった。「マシュー・ニールセン」って誰だよ、と思いながら読んでいて、あっ、ここに帰ってくるのか、と。
●ただ、作品は、最後まで読んでしまうと、あたかもその作品があらかじめそのように書かれるようなものとして書かれたかのように感じられてしまう。つまり、細部がある遠近法的な配置をつくり、いくつかの収束点へと納まるように感じてしまう。それはここでは、「ああそうか、この小説は要するに子供に導かれるという話なのか」と納得してしまう、ということだ。磯崎さんの小説は、一方ではこのような納得への抵抗としてもあると思う。実際、書き出しからしばらくは子供のことなどまったく関係なく展開されているし、その部分がこの小説で枝葉だとは言えない。唐突に逸脱するシリコンバレーの話もあり、その部分を読んで戸惑っていることもまた、この小説を読むことの重要な一部だ。磯崎さんの小説のアルカイックな明快さとは、陰影がないということであり、それは遠近法もないということだ。そして、遠近法がないということが、小説が描き出す「線」を複雑に幾重にも折りたたませるという構造を要請する。しかし、そのような構造をもっていても、読者は(ぼくは)しばしばそこに、勝手に遠近法(深さや陰影)を見出してしまいがちだ。
シリコンバレーのマチュー・ニールセンの話は、いかにも突飛な逸脱にみえるが(おそらくそれが八十年代のシリコンバレーであることによって繋がっているのではないか)、シリコンバレーの話だけが特別なのではなく、そもそも、この小説を構成する四つのブロックというか、四つのエピソードは関連性が低く、それぞれの独立性が高く、その三つ目のブロックと四つめのブロックの間に「子供に導かれる」という共鳴があったということにすぎないと考えるべきだろう。他にも共鳴はいくつもあり、そのどこに注目するかで違った遠近法が生じてしまう。例えば、この小説全体にわたって何度もしつこく「禿げ」という言葉が出てくるとかいうところに注目することも可能だ。
●例えば冒頭のブロックには子供の話は出てこないが、引用した部分と関連するところがある。五十歳の誕生日の翌朝の「私」は、肉体が《すり替わったのではないか》と思う程に軽く感じ、試しに《通りを走ってみ》るのだが、《風景の方では五十歳の私を忘れてはいなかった》ようで、「私」は、《カエルのような無残な格好で地面に投げ出され》る。そして次のように書かれる。
《しかしだからこそ、どんな人間よりも風景という奴は信頼できるのだ。風景の次に信頼できるのは、恐らく動物だろう。風景にしても動物にしても、私の人生で憶えている限り、裏切られた記憶など一度もない。》
最初のブロックに置かれるこの文の、風景や動物の位置にちかいものとして、三つめのブロックの、前に引用した「子供」が置かれていることは確かだろう。最初のブロックで、風景が、若返ったかのように錯覚する「私」の思い込みをひっくり返すのと同様、三つ目のブロックの子供は、《子供と一緒にいるときだけは、孤独は他の何にも換えがたい歓びにすりかわってしまうようだった》という思いをひっくり返す(このようなひっくり返しは様々な次元で仕掛けられ、小説の運動をかたちづくる)。「私」は、風景に導かれるようにして子供に導かれるのであり、子供が監視者であるように風景もまた「私」が信頼する監視者なのだ。
●それは別の言い方をすれば、「風景」こそが最も信頼できるみたいなことを言っているのに、それがすぐに「子供」に書き換わってしまうということでもある。場合によってはそれが「母」になったり「幼なじみ」になったりすることもあろう。しかしそれは決していい加減な出まかせを言っているというわけではないだろう。「私」に「真理」を気づかせる審級は、決して固定できないということなのだと思う。だから真理も固定できない。五十歳の「私」の肉体が驚くほどに軽いのも真理であり、同時に、それが錯覚であることも真理なのだ。この二つは同等に真であり、しかしここで、ある真から別の真への移行(運動)が、風景(子供、母…)に導かれることによって生じるということなのだと思う。
磯崎さんの小説のアルカイックな明快さは、真から真への移行運動として書かれていることから来るのではないか。それは例えば、偽から真への段階的な移行(隠された真実が徐々に明らかにされる)のような「物語」とは根本的に違うのではないか。
●真から真へと移行するということは、ネタ振りがあってオチがあるとか、疑問が提起され、試行錯誤の過程があり、とりあえずの結論が示されるとかとは違うということだ。A、B、C、D、E、F、G、という出来事が並んでいる時、まずはそれは、その順番でやってくる出来事の流れであり、線の折れ曲りであり、リズムや運動であるだろう。だがさらに、その七つの出来事の間にあらかじめ決められたネタ振り→オチ、問題提起→解答といった固定的関係がないから、読み進む中で、出来事AとFとの間にあるやり方で共鳴が起こり、出来事CとGとの間でも共鳴が起き、それとはべつのやり方で出来事AとGとの間に共鳴が起こるという風に、線的な流れとは異なる、ネットワーク状の共鳴関係が生じる。それらは互いに重なり合った複数の図形を形作る。だから、遠近法がないということは、複数の遠近法が重ね描きされていて、一つの遠近法には収束されないということであろう。
●例えば、引用した部分で風景や動物への信頼が語られた後、風景への信頼の一例として、五十歳の誕生日の翌朝の出来事が描かれれば、それはネタ振り→オチという関係になるかもしれない。しかし、朝起きたらからだが軽かった(A)、しかし試しに走ったら転んだ(B)、だから風景こそが信頼できるのだ(C)とされると、AとBとCとの関係(ABCという展開)は、それほど安定したものではなく、それどころかスラップスティック的だと言える。AからBへの展開は出来事の(文字通り)転倒であり、BからCへの展開は出来事から意見表明への位相のズレ込みとしてあろう。意見→具体例と進めばその両者の関係は明白だが、ここで「C」には、まったく場違いな場所でいきなり御大層な演説をはじめたかのような違和感が生じる。つまりここでA、B、Cの因果関係はそれほど明確ではなく、三つの事柄が移行してゆくリズムと流れの折れ曲がりによってだけ、三つの出来事の繋がりが保障されている。
だから、それぞれの出来事は「関係が確定されないまま」それぞれ独立した「真」として投げ出される。つまり「複雑(関係が確定されない)」で「明快(それぞれ真として言い切られる)」となるのではないか。