●『serial experiments lain』をDVDで。小中千昭脚本。近所のツタヤが今月いっぱいで閉店してしまうので、今のうちに気になるアニメをまとめて観ておこうと思っている。これは98年の作品。いわゆる「現実世界」と「電脳世界」の分離と融合をネタにした作品で、『マトリックス』よりも早い。他の多くの作品に影響を与えたであろう先進的な作品という匂いがプンプンする。例えばすぐさま『電脳コイル』への影響が感じとれる、とか。ぼくは98年にはまだパソコンを持っていなかったけど、この時点で「現実世界」と「電脳世界」についての物語はここまで洗練されていたのかと驚く。
例えば、『攻殻機動隊』(95年)は、現実世界と電脳世界の融合のような話を、現実的(社会的)に説得力を持った話として組み立てようとしているけど、『serial…』では、怪談話からはじまり、そこにカリフォルニア的な神秘主義やUFO、陰謀論などの匂いを絡めて、胡散臭い雰囲気の方へもっていこうとしている。この作品では、現実世界と電脳世界(リアルワールドとワイアード)は、この世とあの世のようなニュアンスをもつ。黒沢清の『回路』などに近い感じ。この物語は、リアルワールドとワイアードとをデバイスなしで結ぶというものなのだが、実際、小中千昭は『神霊狩』(2007年)で、コンピューターとかインターネットとかとは無関係に、この世とあの世の境界があいまいになって混ざり合う感触を描いているので、コンピューターとかインターネットという話より、この世とあの世という主題(あの世がこの世の方に滲み出してくる感じ)の方が本質的なのだと思う。
電脳世界の発達がガイア的全体主義(地球の意識や集合無意識)に結びついたり、人間の記憶や意識をコンピューターに転送して死後も保存したりという発想(ネタ)自体はきわめて紋切型だけど、ここではまさにその、胡散臭い紋切型の「胡散臭さ」こそが楽しまれている感じ。この、紋切型で胡散臭い感触が、とても複雑で多焦点的な物語として編集され構築されるというのが、小中千昭テイストなのだと思う。胡散臭いと知りつつ惹かれてしまうもののもつ微妙かつ危険なリアリティを、作品と言い得る強度にまで高めている、というか。ネタバレになるけど、主人公がいわば虚の焦点であり、しかし同時に、現実的な感触(家族との距離感、友人との齟齬)の起点でもあるという二重性が、この作品世界を複雑なものとしている。作品世界全体が、この世からあの世へ(個から集合無意識へ)という(まさに胡散臭い)流れなのに対して、主人公があの世からこの世へ(集合無意識から個へ)という逆向きの流れをつくり、双方向が重なっている。
最も実体の希薄な主人公が、観客にとって作品と現実的な感触(感情)の接点となり、通路となっている。いや、そうではなく、ずっと、作品と現実との最も生々しい接点であった主人公が、作品の終盤で、実は実態も根拠もない存在であったと知れることで、作品世界だけでなく、観客にとっての世界もひっくり返る。つまり、この世とあの世があるのではなく(あるいは、個から集合無意識へという、紋切型で胡散臭い、神秘主義全体主義と、それに抗する素朴な現実主義の相克があるのではなく)、この世のなかにあの世があり、あの世のなかにこの世があるという感じになる。ここまで来てはじめて胡散臭さのリアリティに触れることができる。
この物語は、自殺した女の子からメールが来るというありふれた怪談からはじまる。主人公は、その女の子と学校から「一度だけ一緒に帰ったことがある」という。この、「一度だけ一緒に帰ったことがある」という現実上の感情的な微妙な感触と、死んだはずの子からメールが来るという怪談話のリアリティの感触は、裏表のようにつながっている。
●この物語は一方で、この世とあの世が繋がるとか、地球の意識が覚醒するみたいな、誇大妄想的な大きな話で、しかしもう一方で、主人公とその友人との関係という小さい話にリアリティの源がある。あの世とこの世というのはだから、大きな話と小さな話ということでもある。その時、大きな話のなかに小さな話があり、小さな話のなかに大きな話があるという、反転的循環関係が成り立つ。このような、一と多とが直接つながるような関係が自然に成り立つのは、主人公が虚の位置にあるというだけでなく、コンピューターとかインターネット環境の出現によるのだろう。通常ならば、一と多とを結ぶのには、多を代表する一としての何かが必要であり、「代表」という機能をあらわす何らかの装置が物語に組み込まれる必要がある(例えば、主人公が記者だったり刑事だったりというように公的機関に属していたりとか、探偵が依頼されて調査を代行するとか)。しかし、ネットワークという概念が代表という概念にとって代わるとその様相がかわる。
もし、ネット環境を前提にしないで、一のなかに多があり、多のなかに一があるという話を、通俗的に分かり易く語ろうとすると、多重人格をめぐるサイコスリラーのようになって、そこでは物語が「私」の意識のなかに閉じ込められる。多重人格的サイコスリラーは、多を個へと詰め込み、個の分裂として描き、ネット環境をめぐる物語は、個を多と接続、溶解させ、集合無意識的(誇大妄想)な傾向に傾きがちだとしても、それはどちらも、一によって多が代表されるという機能の失調の感覚にこそリアリティの起源がある。そして『serial…』にはその両方が重ね描きされている。
この時、一は安定的に一ではなく、多も安定的に多なのではなく、つまり最終的にどちらに収束するのかわからない不安定な中間の状態の不気味さが浮上するのではないか。まさに「胡散臭さの領域」として。そしてこの胡散臭さの領域は、しばしば「わたしの異様な鏡像」という形によって(いわゆる「不気味の谷」のような感じで)現れる。例えば、わたしにまったく似ていないもう一人のわたしとか、逆に、彼と瓜二つなのに彼とは違う誰かとか、はじめて会うのに懐かしいあなた(デジャヴ)とか、人間のような形をしているのに決定的なところでちがう宇宙人とか、味方だと思っていたのに実は裏切っていた親友とか。