●『パラジット』(ミシェル・セール)を読んでいて(まだ途中)、パゾリーニの『テオレマ』を思い出したので、久々にDVDで観てみた。
パゾリーニの映画は、映画としての豊かさのようなものを意図的にそぎ落として、単純化された輪郭線と公式だけによって、簡潔に寓話を語るという感じで、ぼくはモノによってはどうしても退屈してしまうのだけど、『テオレマ』は、そのような意図がまさにぴったりハマっている作品だと思う。
それから、パゾリーニはやはり「顔」で決めるんだなあと思った。こんなに強く「顔」と「まなざし」が突き刺さってくる映画はめすらしい。映画の最初の方で、テレンス・スタンプを見つめる家政婦の眼差しの強烈さが、この映画を最後まで引っ張って行っている。ぼくはアンヌ・ヴィアゼムスキーをけっこう好きなのだが、この映画では本当に「冴えない娘」的な、醜いとさえいってもいいような顔をしている。単純化された空間、モンタージュ、細部、物語などが、顔とまなざしの強さによって支えられている感じ。ただ、この映画で顔は、素顔というより仮面に近い感覚で捉えられているように思う。
●この映画をパラジット的に考えてみる。社会の寄食者であるブルジョアの家庭に、寄食者の寄食者として一人の男があらわれ、滞在する。寄食者は宿主に弁舌によって支払いをしなければならないとセールは書くが、男は自身の存在(美・性)によってこの家族に支払いをする。家族全員(主人、妻、娘、息子、家政婦)は皆、彼のとりこになる。ここで位置が逆転し、男が主人となり、家族は彼が与える愛の寄食者となる。男は家族全員に惜しみなく愛を与える。ここで物音がする。男は去ってしまう(もともと男こそが物音であった)。
男の愛はウイルスのように作用する。男からの愛によって家族は皆、ブルジョアの家族としての意義を見失う。もはやそれ以前と同じ社会の寄食者には戻れない。一人一人は変化する。彼らは何をし得るのか。
最もダメな例が娘だ。娘は男の写真を眺め、男と語り合った場所をメジャーで測って正確に特定し、その場所に坐る。彼女は記憶を再現し、記憶のなかに退行しようとする。しかしそれでは充分ではなく、とうとう完全な機能不全に陥る。ベッドの上から一歩も動けなくなる。
次に息子。彼はたんに記憶に退行するのではなく、男から得た愛をもとに新たな何かを創造しようとして絵を描きはじめる。しかし彼が求めるのは、実は創造でも技術の体得でもなく、たんにモードとしての新しさであり、それはその場しのぎのごまかしでしかない。つまり、根本的な創造ではく、「目新しさ」によってある社会的な位置を得ようとしているだけだ。彼は結局何も描くことが出来ず、キャンバスの上に小便をし、また、小便を垂らすように絵の具を垂らすだけだ。彼もまた、事実上何も出来ない。
妻は、街に出て若い男をあさるようになる。しかしこの行為は、去って行った男の代替物として、若い男たちで自らの欲望を満足させようとするような行為とは異なるようだ。むしろ、意味を失って空虚となった自身の身体を、欲望に飢えた男たちへと捨てるように与えているという感じだ。彼女は、ブルジョアの妻としての洗練された性的身体を、街中の若くて貧しい男たちに贈与する者となる。ここで彼女は、男から受けた愛の支払いをしているのだ。彼女は主人となり、若い男たちは寄食者となる。
主人もまた、財産を捨て、贈与する者となる。彼は、経営している工場を労働者にすべて与えた上、駅の構内で着ている服をすべて脱ぎ、荒地へと歩いて行く。彼はこれまでに社会から寄食したもののすべてを社会へと返す。これが彼の、男への支払いである。一人で荒地へと向かうということは、社会的な関係の拒絶であり、今後、寄食者にも主人にもならないということだろう。つまりその先は死だ。
何もできない子供たちに対し、親たちは男への何らかの支払いをする。しかしそれが可能なのは、親たちには今まで寄食してきた蓄えがあったからだろう。親たちの行為は要するに、社会的な次元での、偏った富の再分配だと言える。
そのまなざしの強さから、もっとも強く男に魅了されていたと思われる家政婦は、彼らとは少し違った。家政婦はもともと、ブルジョアに寄食される労働者であると同時に、ブルジョアの家に雇われる、ブルジョアの寄食者でもあるという複雑な位置にいた。彼女は子供たちと同様、社会的な次元では支払うべき富をもたない。
彼女は、自らの身体を土に埋め、そこで泣きつづけることで、そこに「泉」を出現させると言う。ここにあるのは社会的な次元での交換ではない。彼女は自分自身を自然に対して与えることで(それが男への支払いでもある)、自然から「泉」を引き出そう(産み出そう)とする。ここで、自然は主人であり人間は寄食者である。彼女はその間の媒介となり、自分自身を自然に対して支払う。彼女だけが能動的でありえた。彼女は、社会的(人間的)関係のなかでは物音となり、男と同等の位置へ移動する。