●『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』(クロード・シャブロル)をDVDで。この映画には勿論、様々な方向へ向かう複数の力の作用があり、その引っ張り合い、せめぎ合い、絡まり合いがあって、それに伴って、様々な力たちによって描き出される関係の図像が動いてゆくのだし、そのような、多数の力が同時に作用する場が、非常に繊細で抽象的な形式として造形されているのだけど、しかし、この映画では他の様々な力を凌駕する決定的に強い力が一つあって、それが全体を押し流してしまうという様が描かれているのではないだろうか。ここから先はネタバレ。
サンドリーヌ・ボネールが、どこか謎を感じさせつつも、ブルジョアの家庭の家政婦としてそれなりに友好的に(重宝がられて)受け入れられ、しかし、その家庭の主人から疎まれている郵便局員と親しくなることから次第にぎくしゃくしはじめ、そこに埋めがたい決定的な溝が(特に一家の娘との間に)露呈する、というような力のせめぎ合いは、それ自体では決して「惨劇」に至るような軌跡を描き出すことはなかったはずなのだ。一方にブルジョア家庭の姿があり、もう一方にそれとは決して相容れない女たち二人のペア(系列)がある。当初、ブルジョア家庭のなかで孤独に存在し、しかしその流儀にそれなりに従っていた女が、自らのペアを見つけてそこから分離してゆく様は感動的なものがある。しかしそれはあくまで「分離」であり、双方が互いの異質性を認識しながらその一部を認める(妥協する)ならば、異質な二つの関係(系列)は、分離しつつも重なって作動し続けた(裏で互いに互いを軽蔑しながらもギブ&テイクでそれなりに上手くやっていた)だろうし、妥協が不可能であれば完全な分離が起こった、というだけであろう。しかし「惨劇」は起こってしまった。
それは、この映画にあらわれる様々な異なる力のなかで、サンドリーヌ・ボネールによる、「自分が非識字者であることを誰にも知られてはならない」というオブセッションの力が最も強いものとしてあるからではないか。彼女にとってはそれが何よりも優先される(勿論これは「心理」の問題ではなく、もっと大きな、どうしようもない力なのだ)。彼女がこの部分について、もう少しでも柔軟に妥協可能であれば(つまり「心理」の問題であれば)、惨劇は起こらなかったのではないか(この映画にもし「狂気」があるとすれば、この一点のみであろう)。この映画は一見、サンドリーヌ・ボネールイザベル・ユペールの「出会い−合流」によって、引き返すことの出来ない運命の歯車が作動したかのようにつくられているようにみえるが、しかし本当は、この二人の出会いは祝福されるものではあっても決して禍々しいものではないはずだ。実際、殺戮の現場で主導権をもつのはサンドリーヌ・ボネールであって、イザベル・ユぺールはたんに彼女の傍らで、彼女につられてはしゃいでいるだけのように見える。
つまりこの殺戮は、ビルジニー・ルドワイヤンが、サンドリーヌ・ボネールが字を読めないことを察知し、それを家族に漏らしてしまった時に既に決定されていた。字が読めないことがバレる場面(伊達眼鏡という小道具の非常に冴えた使い方)では、確かにこの二人の立場の根本的な相容れなさが露呈されるが、しかしそんなことは(ビルジニー・ルドワイヤンはともかく)、サンドリーヌ・ボネールには既に十分過ぎるほどわかっていることではないか。だから問題は二人の立場の相容れなさではなく、「字が読めない」ことをバラしたことの方なのだ。それを知られた以上、この家族を生かしておくわけにはいかなくなる。
だからこの惨劇を、階級差によって引き起こされたとするのは間違いではなくても正確ではない。イザベル・ユペールが服を引きちぎり、ベッドにココアをまき散らし、オペラを観る家族を上から見下ろす時、そこで起きているのは確かに階級差の(想像的な)逆転という出来事であろうが、サンドリーヌ・ボネールが一家の主人をためらいなく撃ち殺し、さらにもう一発とどめを撃ち込む時の殺意は、この主人の書斎によって代表されるような「文字たち」に向けられているのだ(オブセッションからくるこの殺意には「文字たち」への恐怖が裏うちされているだろう)。階級差の逆転にはしゃいでいるイザベル・ユぺールと、家族を皆殺しにするという明確な目的に向かって冷静に行動するサンドリーヌ・ボネールは、この時点で既に別の方向を向き、共犯者ではなくなっている。
(文盲の理由が彼女の出自にあるとすれば、そこにも階級差があると言えるが、文盲なのか失読症なのか明確にはされない本作では、その「差異」は階級差などより、より根本的なもので、経済的な格差に還元されない。字が読める/読めないの間にある絶対的断絶。)
だからこの惨劇はそもそも、サンドリーヌ・ボネールが巨大な書斎があるような家で働くことになってしまったというところから始まっているとも言える(メモに書かれた文字と、本に書かれることで権威づけられた文字との違い)。「字が読めない」ということを誤魔化すだけであれば、彼女は今までもそうしてきたように(映画の序盤の彼女がそうしていたように)、その都度機転をきかせてうまくやれたはずではないか。彼女の反応が異常になるのは、主人から「書斎の机の上にある書類」を探すように言いつけられてからなのだ(自分が「字が読めない」というこの世界そのものを否定するかのように、部屋に閉じこもり、テレビのボリュームを大きくして音すら遮断する)。ならば、惨劇は、もしイザベル・ユペールと知り合わなかったとしても起こったはずであろう。だとすれば、ほんの一時期でも、サンドリーヌ・ボネールイザベル・ユペールという友人を持ち得たことは、それ自体として禍々しいものではなく、なによりも祝福されるべきことなのだ。