●引用、メモ。『来たるべき思想史』(清水高志)第八章「想像力と三つの倫理」から。以下に引用する想像力(想像的なもの)と、昨日、一昨日に引用した荒川修作のイメージへの不信とが、どのように関係するのだろうかということが気になる。
●まずオスカー・ワイルド『獄中記』からの引用。
《キリストを、この胸のときめくような物語の中心にあらしめるのは、彼自らの本性のなかにある想像力の資質なのだ。詩劇や民謡中の不思議な人物は、他人の想像によりつくられるが、ナザレのイエスはまったく、自ら想像によって自分自身を創造したのである。》
●それを受けて。
《新しきものの創発は個によって、逆説とともに生まれる。ワイルドは、キリストをこうした独創的な逆説家として捉えている。それは福音書に現れるキリスト自身が、彼にとって、当時の普通の道徳規範から見れば非難される対象でしかない、さまざまな者たちの「悲哀」や「嘆き」を感受することができる人物であり、その意味で想像力に富む芸術家であったということを意味している。
通常は倫理的倨傲に目が眩んだ人間には見えない、まさに匿名的な他者の「嘆き」を汲み取る独創を彼が示したからこそ、キリストは彼自身をも発見することができた。それを「想像力を介しての自己の創造」とワイルドは捉えたのだ。》
●ここで言われる想像力とは、その時点では「あるもの」とはされていなかったことを感受する能力のことであり、それがつまり「存在」に対する「逆説」としての想像力ということなのだろう。「感受する能力」である限り、それは受動的なものなのだが、その感受したものによって《彼自身を発見》し、《自分自身を創造する》ことで、それは能動となる。
●あるいは、ヴァレリーの《不思議なのは、事物が在るということではなく、それがこのようにあって、他のようではないということである》(『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』)を受けて。
ヴァレリーの発言の趣旨は明白である。世界の存在以前に、世界はつねに変容し、そこに現れるあらゆる形態はさまざまな「結びつき」をもつものであるが、われわれにはそのごく有限のあり方だけが示されているにすぎない。そうした事実にこそ驚くべきであり、またその有限さを懐疑すべきだと言いたいのだ。
て、それこそが事物の発見であり、ポイエシス、創造であると、彼は考える。ポイエシスは存在よりも彼にとっては本質的な問題なのだ。》
ヴァレリーはむしろ、詩的想像力の機能を本来的に働かせることによってこそ、「数多くの連想の結合の中心」である媒体(medium)、つまり事物を、「発見」することができるのだと考える。こうした詩的想像力による事物の発見---その質料や法則の発見---のほうが、生存という目的や、ありきたりな用途に役立てるために事物を見ることより、はるかに驚きに満ちている。この驚きに立ってみれば、いわゆる現実の事物は、むしろ有限のもの、制約されたものしか捉えられない。こうした価値の転倒、あるいは懐疑が、ここでは語られているのである。》
●現実や存在に対する「懐疑」としての想像力。様々なあり得べき「組み合わせ」のなかで、なぜ「他の組み合わせ」ではなく「この組み合わせ」として現実が存在するのか、への懐疑という形で想像力が働く。現実にはそうではないが、そうであり得たかもしれない複数の事柄の検討を通じて、《「数多くの連想の結合の中心」である媒体(medium)》としての「事物=媒介(だからこれは、現にそこにあるという意味での事物、あるいはもの自体ではない)」が発見(=創造)される。つまり、想像されるものそのものというより、それを通じて、それらを結合させる「媒介」のあり様を捉えようとすること。この点については、それ自身としては信用に値しない薄っぺらなイメージを用いつつ、その展開や変換によってつくりだされる相互関係、その変換の用法のなかで「何事か」を解明しようとする(世界とのエンゲージメントをつくり直そうとする)荒川と通じるように思われる。
●《芸術家たちは世界についての、彼ら一人ひとりのためだけの科学を作り上げ、世界の複雑な連環をそこに見出す。それと引きかえに、往々にして彼らは現実の世界に対して傍観者になってしまう。》
《他の詩人たちが受動性や作者の消失を語るところで、ヴァレリーはむしろ、ポイエシスにおける自我の能動性を語る。これは仮説形成が、懐疑の方法であるとともに、世界像を拡充し、世界に有効に対処するためのものであったことを思えば、理解できるだろう。詩的想像力が事物に触れて感じる驚きは、一面では自我からその主知性を奪うものだが、しかし知ることの放棄ではなく、むしろ知を充実させ、自我を世界や他者と融和させる。ヴァレリーはそれを、詩的想像力を介して、精神ないし自我が自らを生み出すこととして捉えるのだ。》
《詩人たちや文学者は、ある種の受動性、「心にかなはぬすぢ」こそが、精神の自己形成にとって必要であると強調するが、これは何らかの事件に処する精神が、遡及的に自らを形成するということをさまざまに表現したものだ。彼らはいずれも、通常考えられる世界に対して自我が働きかけるのとは、逆のベクトルを見出す必要性を説いている。》
●受動性が能動性へと転化すること。そこで受動性によってあらたに自らを創り出した能動性は、また、そのまま新たな事態に対する受動性となり、それが別の能動性へと自身をつくりかえてゆく自我と、世界や他者は、対立するのでも、同一化する(させられる)のでもなく、そのような受動と能動との反転運動を通じて、《彼ら一人ひとりのためだけの科学を作り上げ、世界の複雑な連環をそこに見出す》。