●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)、第三章、メモ。独自の郡司モデルがここから出てくる。
●自己推進粒子モデルでは、自由な個と整然とした群れとは別の相としてあらわれた。階層ボイドモデルでは、反発と接近との非同期性によって、ある程度、個の自由と群れとしての統一性とが両立した。しかし、実際の群れはもっと複雑な動き方をする。例えば、サンゴ礁を移動するアイゴの群れは、群れ全体としてはサンゴ礁の上を舐めるようにゆっくりと移動する。だが、《群れの内部の個体は決して整列せず、絶えず進行方向を変え、交差し、内部に乱流状態をつくり続け》、先端にいる個体がリーダーというわけでもなく、《群れ全体の先端に位置する個体は絶えず入れ替わっていく》。つまりそもそもリアルな動物の群れには定向性によって基礎づけられるわけではない。
●では、多様な個の集合であるモノとしての群れと、1個の機能的全体が開設されたコトとしての群れは、どのように共立するのか。ボイドにおいて反発と接近を媒介する重要な規則は速度平均化であった。しかしこれは基本的に個を抑制する画一化の働き(同調圧力)である。つまり平均化規則として現れるコトがモノを抑制するという形だ。個は受動的に平均化規則に従わされ、その能動性はたんに「ゆらぎ」として現れるのみだ。
《したがって、受動、能動の両義性によって、両者の共立した相互作用---それは局所に見出される社会性だ---を構想するためには、受動、能動の対立軸をぶれさせ、両者の共立を実現するための、新たな概念装置が必要となるだろう。それが、「能動的受動性」と「受動的能動性」である。》
●能動的受動と受動的能動は「ダチョウ倶楽部モデル」として説明される。まず、リーダーと寺門が、「おれがやる」と手を挙げる。そこでつくられた空気にのっかって上島も「おれがやる」と手を挙げる。すると最初に手を挙げた二人は引いて行為を上島に譲る。上島は熱湯風呂に入らざるを得なくなる。ここでは、リーダーと寺門が能動的受動性を担う者であり、上島が受動的能動性を担う者というわけだ。
ただここで気をつけるべきなのは、ダチョウ倶楽部においては、リーダーと寺門があらかじめ共謀していて上島を陥れているわけだが、それだと能動的受動性にはならなくなる。つまり、リーダーと寺門の間にはあらかじめ空気が出来ていて、上島はそこから排除されている。そうではなく、それぞれが個別の判断によって手を挙げるのだが(つまり、それぞれモノとして勝手に振る舞っている)、たまたま二人の意向が重なったことによって空気(空気というコト)が発生して、その空気に上島が「のっかる」という形だと考えないと、能動的受動性と受動的能動性という位置が適宜入れ替わることで、モノとコトとが混ざり合うということがなくなってしまう。
●つまり、個としての判断(振る舞い)がたまたま重なること(しかしこの段階ではまだ「手を挙げている」だけで具体的に「行為」しているわけではない)によって空気(徴候といってもいいかもしれない)が生まれる。次に、その空気にのっかって先走って行為するお調子者が現れる。そして空気を生んだ者たちは、今度はそのお調子者の行動に引っ張られる形で後追い的に行為を起こす、ということだろう。そう考えると「ダチョウ倶楽部モデル」という言い方はあまり適当ではないように思われる。先行して空気を生み出しながらも、行為としては後追いになる者が「能動的受動者」で、後追い的に空気にのっかるのだけど、行為としては先行する者のことを「受動的能動者」という、のだと思う。こう考えると、「空気を読む者」とは、周囲にあわせて目立たないように行動を抑制する者ではなく、むしろ切り込み的に行動して状況を動かす者ということになる。ここに、非同期性が効いてくる。
《明らかにここには、ものごとが同時に起こらない、時間の非同期性が認められる。つまり受動的能動者が先に運動し、きっかけを作った能動的受動者は、これに触発され後を追うことになる。しかし受動的能動者は、ただ勝手に動き出すのではなく、能動的受動者に誘われて動き出す。》
《(…)リーダーとジモンは、まだ入ってもいない熱湯風呂に、未来において入るということを竜兵に表明したのである。》
ダチョウ倶楽部の解釈としては間違っているように思うけど、これはすごくおもしろい。
●では、このような概念を実装した「群れ」をシミュレーションするために、それをどのようにモデル化するのか。
《(…)各個体は可能的遷移(移動が可能な位置)を複数もっており、それらが重複したときのみ、互いに知覚できるものとする。》
例えばXとYという二つの個体があって、Xはa地点とb地点に移動可能であり、Yはb地点とc地点に移動可能であるとする。この時このモデルでは、Xは、Yもb地点へ移動可能であることを知り、Yもまた、Xもb地点へと移動可能だと知ることになる。たまたまb地点が重なったことで(相手が自分同様に「手を挙げている」ことを知ることで)b地点が「人気」であるという空気が生まれる。つまりここでXとYは、空気をつくるリーダーと寺門の役割をもつ。
この時、(どちらになるのかはランダムに決定されるのだが、仮に)Xがb地点へ移動したとする。するとb地点はふさがれるのでYはc地点へ移動する。つまりここでは、空気にのっかったXが受動的能動者(上島)となり、Xが先に行動したことによって(≒Xの行動に触発されて、という風にも解釈できる)c地点に移動したYは能動的受動者となる(ここでXは、リーダー・寺門の役割から上島の役割へと変化する、このように役割は常に入れ替わる)。
●このモデルでは、個の勝手な振る舞いが「偶然に重なる」ことで空気‐徴候が生み出され、空気が「相互予期」として働く点が重要となる。ここで第二章にあった、厳密な位置の計算としての「予測」と、幅のある分布の計算としての「予期」との違いが効いてくる。
≪重要な点は以下の三点である。第一に、相互予期によって人気のある場所をつくり出し、かつ人気のある場所での重複を避けるためには、可能的遷移の数はできるだけ多いほうがいい。第二に、可能的遷移は各々が厳密に予測するのではなく、曖昧に予期されると考えられる。予測ではなく、予期だというのは、移動しようとする場所(可能的遷移)が複数重なってはじめて人気のある場所として確定するからだ。重ならない個体の可能的遷移は知り得ない。(…)第三に、受動的能動、能動的受動の連鎖を実現するものは、ものごとが同時に起こらない、時間の非同期性だという点である。可能的遷移の重複した場所へ、皆が同時に押し寄せれば衝突してしまう。互いに密集しながらも、衝突を避けて前進するためには、非同期な時間の進め方が必須となる。≫
●このような考えを実装した200の個体が、トーラス状になった格子平面の上を移動するプログラムを実行する。ここには、ボイドにあった「速度平均化」のような同調的な規則は一切含まれない。
≪最初、個体はこの平面にランダムに分布している。周期境界条件(平面がトーラス状であること・引用者注)のおかげで個体は接近し、小集団を形成するようになる。接近した個体間でのみ、相互予期が見て取れる。小集団が集合、離散を繰り返しながらも大きな集団を形成するようになると、相互予期のネットワークは密になり複雑に絡まりあって、ほどけ難いものとなる。≫
ここで、相互予期ネットワークの密集度は、「可能的遷移の数」というパラメーターに依存することが分かる。可能的遷移数が小さいときは、相互予期は機能せず、機能してもすぐネットワークが切れてしまう。群れは成長できない。可能的遷移数が大きいとき、相互予期ネットワークは密に絡まり合い、個体間距離の小さい密な群れとなる。
●ここで実行されたシミュレーションにおいては、≪群れが形成され、一方向に移動しながら、群れ内部の基本速度は不均質であり、定向配列をとらない≫。≪逆方向から進行してきた二つの群れが衝突し、その後各々が直角を成す向きに離れて≫いくという動きをみせる時にも、≪群れ内部の基本速度は同調しておらず、群れ内部で複雑な運動をしながら、群れとして一方向に移動していく≫という様子があらわれる。
つまり、ボイドを基本とした(定向性を基本とする)群れのシミュレーションとは根本的に異なる動き、サンゴ礁を移動するアイゴの群れとそっくりな動きが実現される。
≪相互予期によって形成される群れは、個体の多様性を担保し、群れ内部で各個体の自由な運動を共存させたまま、1個の塊として移動することができる。しかも、相互予期のネットワークは、複雑で切断されることが困難なパターンとなることで、頑健な群れを形成することになる。≫
≪速度同調のように、モノとコトを完全に統合するのではなく、コトを予期するモノであり、モノから実現されるコトである両義性が、非同期時間を通して組み込まれる。モノとコトは斜交して進行する。複雑に折り畳まれた同時間面を通して連鎖する。これを同期的時間のもとで眺めるかぎり、あらゆる局面、あらゆる時刻で、私たちはモノとコトの未分化な様相を見ることになる。≫
(第三章はまだつづく。)